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『病院・クリニック経営150講 ― ステージ別・頻出過去問集 ―』【第39講】

退職医師が患者を連れて独立した ― 患者は誰のものか

病院・クリニック経営150講 ― 院長が困る日の教科書 ―

第39講 退職医師が患者を連れて独立した― 患者は誰のものか

第Ⅳ部 医師の採用・退職・独立

退職した医師が近くで開業し、患者がそちらへ流れる。医療機関の経営者にとって、これほど腹の立つ場面はないかもしれません。しかし最初に確認しておくべきことがあります。患者は、誰のものでもありません。どの医療機関にかかるかは患者が決めることであり、それは法人の財産でも、医師個人の財産でもない。

確認するのは、患者への働きかけ、情報の扱い、契約上の義務です。この講では、最高裁の競業に関する判断を参考に、在職中と退職後で何が違うか、どのような対応が可能かを整理します。患者の選択と継続診療を尊重しながら、医療機関の正当な利益を守ることが目標です。

例えば、次のような場面を考えてみてください。整形外科の常勤医師が退職して、徒歩10分の場所に開業しました。開業から3か月、こちらの外来の患者数は2割減っています。
受付の職員が言いました。「退職の前の月、先生が患者さんに『来春、近くで開業します』と診察室で話していたのを、何人も聞いています」。
院長は考えます。患者を返せとは言えない。では、何が言えるのか。

1 出発点 ― 患者は自由に選び、医師は自由に開業する

二つの自由が、この問題の土台にあります。ひとつは、患者がどの医療機関を受診するかを自由に決められること。もうひとつは、医師が退職後にどこで開業するかを自由に決められること(職業選択の自由)。この二つがある以上、退職した医師のもとへ患者が移ること自体を、法律で止めることはできません。

最高裁平成22年3月25日判決(三佳テック事件)は、退職後の競業避止特約等がない元従業員の競業が争われた事案です。退職の挨拶で独立後の受注希望を伝え、以前の取引先から受注していましたが、営業秘密の利用や信用を傷つける営業などは認められませんでした。最高裁は、取引の経緯等を総合し、自由競争を逸脱する違法な行為とはいえないと判断しました。「働きかけが一切なかったから適法」とされた事案ではありません。

この判決は医療機関の患者移動を直接判断したものではありませんが、競業の態様を検討するうえで参考になります。患者が移ったことだけで違法とせず、在職中の義務や有効な特約、情報の扱い、不当な誘導の有無を具体的に確認します。医療では、患者の選択と診療継続への配慮も欠かせません。

2 在職中と退職後で、線引きが違う

行為の時期は重要ですが、それだけで適法・違法は決まりません。在職中の立場や担当業務、退職後の特約、働きかけの内容と方法を合わせて確認します。

時期医師が負う義務問題になる行為の例
在職中雇用契約上、勤務先の正当な利益を不当に侵害しない義務を負う。開業準備や転出先の説明が一律に禁止されるわけではない。理事の競業取引には理事会承認等の規律がある(第19講)。診療上の立場を利用した不当な転院誘導/患者情報の無断取得・目的外使用/背信的な職員の集団勧誘/勤務義務に反し、無断で勤務先の設備を開業準備に使うこと
退職後特約がなければ、原則として自由競争。ただし、社会通念上自由競争の範囲を逸脱する態様は不法行為になり得る。守秘義務は退職後も続く。無断で持ち出した患者情報を開業案内に使う/虚偽の説明等で勤務先の信用を傷つける/社会的相当性を逸脱する職員の引抜き(第40講)。組織的な勧誘というだけでは結論を出さない。

冒頭の「近くで開業します」という説明だけでは、違法とまでは判断できません。患者からの質問への回答か、診療の引継ぎに必要な説明か、自院を不当に貶めて転院させる勧誘かを区別します。在職中の立場を使った誘導では誠実義務が問題になりますが、言葉の一部分だけでなく、合意した告知方針や説明の全体を確認してください。

退職後に、医療広告のルールに沿って公開の開業案内を出し、それを見た患者が受診することは、原則として自由な競争の範囲です。ただし、案内の宛先に勤務先から無断で持ち出した情報を使った場合や、有効な特約に違反する場合は別に検討します。

3 判断の材料になる事実

最高裁の枠組みを踏まえて、実際の事案で「自由競争の範囲を逸脱したか」を判断するとき、次のような事実が考慮されます。相談を受けた際、私たちが最初に確認するのもこれらです。

  • 働きかけの時期——在職中か、退職後か。退職の何か月前から始まっていたか。
  • 働きかけの方法——診察室で口頭で告げた、連絡先を控えて後日案内を送った、ホームページで告知しただけ。方法によって評価は大きく変わる。
  • 情報の出所——連絡先や受診歴をどこから得たか。正式な転院手続による提供か、カルテ・予約システムからの無断持出しかを区別する(第4節)。
  • 働きかけの内容——事実として転出先を告げたのか、勤務先を貶める言い方をしたのか、通院の継続に不安を煽ったのか。
  • 計画性と規模——特定の患者に限られていたか、担当患者に網羅的に働きかけたか。職員の引抜きと連動していたか。
  • 契約上の約束——雇用契約や誓約書に、退職後の患者への働きかけについて定めがあったか(第5章)。

これらの事実は、後から集めることが難しいものばかりです。退職の申出を受けた時点で、患者・職員から聞こえてくる話を、日付つきで記録し始めてください。「あの先生が診察室でこう言っていた」という職員の証言は、時間が経つと曖昧になります。

4 患者情報の持ち出し ― 別次元の問題

患者情報の無断持出しや私的利用があれば、競業とは別に個人情報・守秘義務の問題を検討します。一方、患者の意思を踏まえて適切な手続で診療情報を転院先へ提供することは、私的な開業案内への流用とは区別します。

患者の診療情報を、退職する医師が自己の営業のために自由に持ち出せるわけではありません。個人情報保護法上の利用目的・提供の規律や守秘義務を確認します。正当な理由なく患者の秘密を第三者に漏らした場合は刑法134条の問題もありますが、持出しだけで同罪が必ず成立するわけではありません。

情報が不正競争防止法上の営業秘密に当たるには、秘密として管理されていること、事業に有用であること、公然と知られていないことが必要です。該当する情報の不正な取得・使用等であれば、同法に基づく差止めや賠償を検討できます。営業秘密に当たらない場合も、契約違反や個人情報の問題がなくなるわけではありません。

患者宅への開業案内、退職直前の大量出力、予約システムのデータ取得などは、調査のきっかけになります。ただし、引継ぎ等の正当な業務だった可能性も調べます。ログや記録を改変せず保全し、必要なアクセス制限と調査を進めてください。本人や受領先に使用停止・返還等を求める場合も、証拠を失わない方法を選びます。

患者情報の漏えい等又はそのおそれがある場合は、個人情報保護委員会等への報告と本人通知の要否・期限を直ちに確認します。診療情報などの要配慮個人情報を含む個人データでは、人数が少なくても報告対象になり得ます。退職医師への請求だけでなく、患者への影響の把握と再発防止を進めてください。

5 契約で何ができるか ― 競業避止と患者への働きかけ

退職後の開業を制限する特約は、医師の職業選択や地域の医療提供にも影響します。守るべき具体的利益、本人の地位、期間・地域・業務の範囲、代償措置等を総合して、必要で合理的な制限かを検討します。「5年間・半径10キロ」なら必ず有効又は無効、といった一律の基準はありません。

競業全体を広く禁じるだけでなく、次のように防ぎたい行為と、許容する診療上の対応を具体的に定めます。条項ごとに必要性と合理性を検討してください。

  • 在職中の立場を使った不当な転院勧誘をしないこと。患者からの質問への中立的な回答や、診療上必要な引継ぎは区別する。
  • 患者情報を無断で持ち出し、私的に利用しないこと。正式な転院時の情報提供は、院内手続と個人情報のルールに従う。
  • 退職の患者への告知は、医療機関と合意した内容と方法で行うこと。
  • 秘密情報の利用や虚偽説明など、不当な職員勧誘をしないこと。退職後の勧誘制限は、対象・期間・行為を必要な範囲に絞る(第40講)。

患者・職員への勧誘を禁じる条項も、実質的に転職や開業を強く制限するなら、有効性が問題になります。書面に署名があれば安心というわけではありません。雇用時又は退職時に、守る利益と必要な範囲を説明して合意し、患者の選択や継続診療を妨げない内容にしてください。

6 守る側の現実的な目標

ここまでを踏まえて、退職医師の開業に直面した医療機関が置くべき目標は、次のようになります。

全部は守れない。患者は自由に選びます。医師についていく患者は一定数いますし、それを止める法的手段はありません。

不当な行為には根拠を分けて対応する。情報の不正使用、有効な契約への違反、虚偽説明による誘導等について、停止要請や損害賠償を検討します。裁判上の差止めには営業秘密や契約等の根拠・要件が別途必要で、不法行為に当たれば何でも差し止められるわけではありません。

診療体制と説明を整える。後任医師の確保、診療の質、患者への丁寧な案内を進めます。紛争への対応と並行して、患者が安心して受診を続けられる環境を守ってください。

保存版 退職医師の開業に備える(8項目)

  1. 雇用契約・誓約書に、不当な転院勧誘の禁止と患者情報の適切な取扱いを、合理的な範囲で定めているか。
  2. 退職の申出を受けた日から、患者・職員から聞こえる話を日付つきで記録しているか。
  3. 電子カルテ・予約システムのアクセスログを保全したか。退職直前の閲覧・出力の記録を確認する。
  4. 退職の告知を、どういう文面で、誰が、いつ行うかを医師と合意したか。
  5. 退職する医師のシステム権限を、退職日に確実に停止する手順があるか。
  6. 担当患者の引継ぎ(後任医師・診療方針・処方)を、カルテに残す形で進めているか。
  7. 患者から転出先を尋ねられたとき、正確な公開情報と診療継続の方針に沿って、中立的に案内できるか。
  8. 職員への転職の勧誘がないか、聞き取りの体制があるか。

7 よくある質問

退職した医師の開業先に、患者が大勢移りました。損害賠償を請求できますか。
患者が移ったというだけでは足りません。義務に反する在職中の勧誘、情報の不正利用、虚偽説明、有効な特約への違反などを調べます。そのうえで損害と因果関係を検討します。減収のすべてを請求できるとは限らず、患者の自由な選択や他の原因も考慮します。
患者から「先生の新しい医院を教えてほしい」と聞かれます。教えるべきですか。
事情を問わず案内義務がある、又は一切ないと決めつけず、継続診療に必要な情報を確認してください。把握している正確な公開情報を中立的に案内し、転院を希望する患者には診療情報提供等を適切に行います。引抜きの紛争を理由に、必要な診療や引継ぎを妨げないことが大切です。
退職する医師が「患者さんに挨拶したい」と言っています。認めるべきですか。
挨拶や必要な引継ぎと、不当な勧誘を分けます。内容、対象、方法を事前に協議し、患者から転出先を尋ねられた場合の回答も決めておくと円滑です。転出先を知らせただけで直ちに違法とはいえませんが、患者情報の私的利用や虚偽の説明は認めないでください。
競業避止の誓約書を取っていれば安心ですか。
署名があっても、過大な制限は無効になり得ます。患者や職員への勧誘禁止も同じで、対象・期間・方法を絞り、守る利益との釣合いを検討します。情報管理、適切な退職告知、診療の引継ぎを整えることも必要です。

作成日:2026年7月1日
改訂日:2026年9月17日

主な法令・参考資料

  1. 民法

    契約、委任、責任、相続・財産分与。768条の改正を含む。

    https://laws.e-gov.go.jp/law/129AC0000000089

  2. 個人情報保護法

    個人データの取扱い、委託、仮名加工情報・匿名加工情報の区別。

    https://laws.e-gov.go.jp/law/415AC0000000057

  3. 個人情報保護委員会:ガイドライン(通則編)

    漏えい等の報告対象、速報・確報、安全管理、第三者提供。

    https://www.ppc.go.jp/personalinfo/legal/guidelines_tsusoku/

  4. 個人情報保護委員会・厚生労働省:医療・介護ガイダンス

    診療情報の取扱い、漏えい等の報告、第三者提供。

    https://www.ppc.go.jp/personalinfo/legal/iryoukaigo_guidance/
  5. 最高裁判所:平成22年3月25日第一小法廷判決

    平成21年(受)1168号。元従業員による競業。

    https://www.courts.go.jp/assets/hanrei/hanrei-pdf-80022.pdf
  6. e-Gov法令検索:不正競争防止法

    2条6項(営業秘密)、3・4条(差止め・損害賠償)。

    https://laws.e-gov.go.jp/law/405AC0000000047
  7. e-Gov法令検索:刑法

    134条。医師等の秘密漏示。

    https://laws.e-gov.go.jp/law/140AC0000000045

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