第40講 医師を引き抜かれた・引き抜いた― 採用競争と不法行為の境界
第Ⅳ部 医師の採用・退職・独立
医師には転職の自由があり、他院が採用を働きかけることも原則として許されます。退職や移籍という結果だけで、相手方への損害賠償が当然に認められるわけではありません。問題となるのは、勧誘の方法や守るべき義務との関係です。
在職中の幹部による背信的な集団勧誘、内部情報の不正利用、虚偽説明などは、法的責任につながる場合があります。紹介会社には、自社で紹介した無期雇用の人への2年間の転職勧奨禁止という別の規律もあります。この講では、採用する側・退職される側の双方から、確認すべき点を整理します。
例えば、次のような場面を考えてみてください。「来月から、隣の市の新しいクリニックに移ります」
常勤医師2人のうち1人がそう告げてきた翌週、もう1人からも同じ話がありました。移籍先は同じクリニック。院長は、その新しいクリニックの理事長が、半年前まで自院の副院長だったことを思い出しました。
1 転職の勧誘は原則自由 ― ただし態様による
従業員の引抜きについて、裁判例が示してきた基本的な考え方は次のとおりです。従業員が転職すること、他社が従業員を勧誘することは、原則として自由である。ただし、勧誘が社会的相当性を逸脱した態様で行われた場合には、不法行為として損害賠償の対象になり得る。
東京地裁平成3年2月25日判決(ラクソン等事件)は、在職中の幹部による勧誘でも、通常の転職の勧誘にとどまるなら直ちに誠実義務違反とはいえないとしました。一方、計画を秘し、一斉かつ大量に移籍させるなど、社会的相当性を逸脱する背信的な引抜きには責任が生じ得ます。地位・待遇・人数、勤務先への影響、勧誘方法等を総合して判断する枠組みです。
この枠組みを医療に置き換えると、次の要素が判断の材料になります。
| 要素 | 医療機関での見方 |
|---|---|
| 勧誘した人の立場 | 在職中の副院長や管理医師が同僚を勧誘したのか、退職後の元医師が声をかけたのか。在職中の幹部による勧誘は、誠実義務との関係で評価が厳しくなる。 |
| 人数と影響 | 少人数の診療所では、1人の退職でも診療や施設基準に影響する場合がある。人数だけでなく、担当業務、代替の可能性、退職までの期間等を確認する。影響が大きいだけで違法とは決まらない。 |
| 方法 | 背信的な一斉移籍の計画、診療体制を崩す目的での働きかけ、内部情報の不正利用等を検討する。本人が転職活動を勤務先に知らせないことだけで違法とはいえない。 |
| 時期 | 在職中か退職後か。退職後の勧誘は原則として自由の範囲に入りやすい(第39講と同じ構造)。 |
| 紹介会社の関与 | 紹介事業者は、自らの紹介で無期労働契約を結んだ者に、就職から2年間、転職を勧奨してはならない。本人が自発的に転職することを2年間禁じる制度ではない(第29・34講)。 |
2 引き抜かれた側にできること
冒頭の場面で、院長が確認すべきことは三つです。
第一に、勧誘の時期と方法。いつ誰が何を伝えたか、勤務先の業務を妨げる計画があったかを確認します。同じ転職先・近い退職日だけで違法と決めつけないでください。本人や職員の話は任意に聞き、事実と推測を分けて記録します。私的な端末や通信を無断で調べないことも大切です。
第二に、情報の取得と利用。非公開の人事資料や連絡先が無断で取得・利用されたなら、個人情報や秘密保持の問題を検討します。一方、本人が自分の給与や勤務条件を転職先に伝えることや、公開情報の利用まで一律に違法とはいえません。情報の出所・管理状況・利用方法を確認します。
第三に、契約上の約束。勧誘禁止や秘密保持の条項があるかに加え、合理的で有効な範囲か、その行為が対象になるかを確認します。退職後の職員への接触や採用を無期限・無制限に禁じる条項は、有効性に問題が生じます。
損害賠償の範囲は、違反行為、実際の損害、因果関係の立証によって変わります。減収の全額を取り戻せるとは限りません。患者対応と後任確保を進めながら証拠を保全し、必要に応じて相手方への通知や法的手続を並行して検討します。情報流出等が続く場合には、緊急の対応が必要です。
3 引き抜く側の注意 ― 自分が「引き抜く側」になるとき
分院を開設する、承継したクリニックに医師を集める、知り合いの医師を招く。院長は、引き抜く側にも立ちます。そのときの注意は、引き抜かれた側の視点を裏返せば足ります。
- 背信的な集団勧誘に加わらない。通常の採用の声かけが直ちに違法になるわけではありませんが、在職中の立場を利用して同僚を一斉に移籍させる計画等には慎重な検討が必要です。
- 非公開情報を不正に取得・利用しない。本人が説明する自己の待遇と、持ち出した他の職員の給与資料・連絡先・患者情報は区別します。不要な秘密資料は求めず、提供されたときも漫然と利用しないでください。
- 勤務開始日を調整する。現職の退職条件と引継ぎを確認し、業務を害する目的で一斉離職を仕組まないでください。ただし、後任が決まらない限り転職できないわけではなく、前職の承諾が常に必要なわけでもありません。
- 紹介会社を使うなら、転職勧奨の経緯を確認する。その会社が無期雇用で紹介した医師に対する就職後2年間の勧奨かを確認し、本人からの自発的な求職と区別する。
- 前職との約束を確認する。本人に差し支えない範囲で競業・勧誘制限や退職条件を説明してもらい、有効性と適用範囲を検討する。有効な義務への違反を積極的に助ける形は避ける。
4 一斉退職 ― 診療を止めないために
医師の引抜きで最も深刻なのは、複数の医師が同じ時期に退職し、診療が組めなくなる事態です。法的に何ができるかより先に、次のことを確認してください。
管理者の後任と実際の管理体制を確認します(第37講)。施設基準の人員要件を満たせなくなる場合は、所定の取扱いと届出、算定の可否を確認してください。代診だけで安全に対応できるとは限りません。予約患者への連絡、紹介先・相談先の確保、職員への説明を進め、保健所と地方厚生局にも相談します。
患者に安全な医療を提供することを優先します。必要な人員や管理体制を確保できなければ、診療を縮小・休止する判断も必要です。同時に証拠を保全し、停止要請や法的手続の必要性を検討してください。
5 今日やること・やってはいけないこと
今日やること
- 雇用契約・誓約書の勧誘制限が、対象・期間・方法を必要な範囲に絞った合理的な内容かを確認する
- 幹部医師との契約で、秘密情報の不正利用や背信的な集団勧誘を防ぐルールと引継ぎ方法を確認する
- 退職の申出を受けたら、退職日・引継ぎ・勧誘の経緯を必要な範囲で確認する。移籍先の開示を当然の義務として強制しない
- 引き抜く側に立つときは、迎える医師の前職との約束を確認する
やってはいけないこと
- 「引き抜かれた」という結果だけで損害賠償を請求しようとする
- 残った職員の前で、移籍した医師や移籍先を非難する
- 引き抜く側として、在職中の立場や秘密情報を使った背信的な集団勧誘を依頼する
- 患者の安全確保を後回しにする。又は、後任確保だけに追われ証拠保全や情報流出の停止を遅らせる
6 よくある質問
- 元副院長が在職中に同僚を勧誘していた証拠があります。損害賠償は取れますか。
- 勧誘の事実だけでは足りません。通常の声かけの範囲か、地位や情報を利用した背信的な集団勧誘かを、方法・人数・影響等から判断します。違反が認められても、損害と因果関係の立証が別に必要です。証拠を保全して、請求と停止要請の見通しを検討します。
- 紹介会社が、自社で紹介した医師に1年で転職を勧めてきました。
- その会社の紹介で無期労働契約を結んだ医師には、就職から2年間の転職勧奨禁止が適用されます。誰から働きかけたかを記録し、会社に説明を求め、都道府県労働局の需給調整事業担当へ相談してください。本人の自発的な転職まで禁止するものではなく、違反があれば手数料の全額返還が当然に認められるわけでもありません(第29・34講)。
- 分院に医師を招きたいのですが、その医師は現在他院の常勤です。何に気をつければよいですか。
- 本人の転職意思と、現職の退職条件・有効な特約を確認し、適切な勤務開始日を調整します。内部情報の不正利用、虚偽説明、背信的な集団勧誘を避けてください。これらは主な確認事項であり、形式的に満たせば常に問題がないという保証ではありません。
主な法令・参考資料
- 民法
契約、委任、責任、相続・財産分与。768条の改正を含む。
https://laws.e-gov.go.jp/law/129AC0000000089
- 個人情報保護法
個人データの取扱い、委託、仮名加工情報・匿名加工情報の区別。
https://laws.e-gov.go.jp/law/415AC0000000057
- 厚生労働省:職業紹介事業の許可条件の追加
2025年1月から。転職勧奨、お祝い金等の規制。
https://www.mhlw.go.jp/content/001327688.pdf - 全国労働基準関係団体連合会:ラクソン等事件
東京地裁平成3年2月25日判決の判決理由等。
https://www.zenkiren.com/Portals/0/html/jinji/hannrei/shoshi/06119.html