第122講 医師にも遺言が必要な理由― 財産より病院を止めないため
第ⅩⅢ部 相続・事業承継・院長の万一
医師の遺言は、財産の分け方に加え、診療所に必要な資産を誰へ渡すかを明確にする手段です。遺言がなければすべての承継が止まるわけではありませんが、土地・設備・持分等の帰属をめぐる調整が必要になり得ます。遺言による財産の承継と、管理者・理事長の選任は分けて準備します。
この講では、医師の相続に固有の問題(個人診療所の事業用資産、医療法人の出資持分、社員の地位、診療所の土地建物)を整理し、遺言で何を、どう書くか、遺留分をどう扱うか、そして遺言だけでは足りない部分(持分の分散防止、認定医療法人、生前の対策)を扱います。
例えば、医療法人の理事長が亡くなり、妻、医師の長男、医師でない長女が相続人になったとします。長男を後任理事長に選ぶ手続は進められても、父が持っていた財産の分け方は別の問題です。持分の内容、死亡退社に伴う払戻請求権の有無、土地の所有者を調べると、「長男が病院を継ぐ」という家族の理解だけでは、決まっていない事項があると分かりました。
1 医師の相続財産 ― 何が固有か
| 財産 | 相続の場面での特徴 |
|---|---|
| 個人診療所の事業用資産 | 設備・在庫・未収金・預金・賃借権等の帰属と利用方法を整理する。後継者への集約は選択肢だが、別の相続人が所有して貸す方法もある。資産を相続する資格と、診療所を開設・管理する資格は別。 |
| 医療法人の出資持分 | 定款の死亡退社・払戻条項等を読み、持分と金銭の払戻請求権を区別する。持分の相続税評価は財産評価基本通達194-2による。適用要件に応じた方法を用い、配当還元方式は適用しない。税務評価と実際の払戻額も別。 |
| 医療法人の社員の地位 | 持分を相続しても社員資格を当然には取得しない。相続人の入社に関する定款の規定があっても、相続と新たな入社を区別し、承認等の必要な手続を行う。 |
| 理事長の地位 | 相続されない。社団では原則として社員総会で理事を選び、理事会で理事長を選ぶ。理事長は医師又は歯科医師である理事が原則で、知事認可の例外がある。 |
| 診療所の土地建物 | 院長個人の所有なら相続の対象。別の相続人が取得しても、それだけで法人への賃貸借が終了するわけではない。賃料、契約期間、第三者への対抗要件等を確認する。 |
| 法人への貸付金・法人からの借入金 | 院長が法人から借りていれば相続債務、貸していれば相続財産(第114講)。 |
| 医師賠償責任・訴訟 | 院長個人が負う損害賠償債務は相続の対象となり得るが、法人だけの債務は院長の死亡で相続債務にならない。係属中の訴訟は当事者・訴訟代理人の有無等に応じて手続を確認し、保険会社にも連絡する。 |
2 遺言がない場合に何が起きるか
- 資産利用の調整 遺産に属する設備・不動産等の管理や処分には、権利関係に応じた合意・手続が必要になる。遺産分割が終わるまで法人の後任選任やあらゆる手続ができないわけではない。
- 権利が複数人に承継される 持分の共同相続なのか、死亡に伴う金銭債権の相続なのかで扱いが違う。相続人が増えれば調整先も増えるが、法定相続分を法人の純資産に掛けた金額を、各人が直ちに請求できるとは限らない。
- 納税資金 持分等の評価額と、実際に使える現金は一致しない。預金・保険・売却可能資産等を確認し、法人の資金を個人の税金に無断で使う前提にしない。
- 意思の伝え方 口頭の希望だけでは、遺言による財産処分の代わりにならない。家族への説明と、法的に実行できる文書をそろえる。
- 配偶者の生活 法人財産と個人財産を区別し、住まい・生活資金を確保する。持分を取得させる場合は、配当ができないこと、換金の方法・条件、社員資格との違いを説明する。
3 遺言で何を書くか
医師の遺言に入れる事項
- 事業用資産・持分等の取得者 対象を特定し、誰にどの権利を取得させるかを定める。死亡退社により払戻請求権が生じる定款なら、その権利の承継も検討する。登記・対抗要件等の手続まで準備する。
- 診療所の土地建物 後継者への相続、他の相続人による所有と法人への賃貸、法人への遺贈等を比較する。法人は相続人ではなく、遺贈には受入手続と相続人への相続とは異なる税務の検討が必要。
- 他の相続人への配慮 預金・有価証券・不動産等を配分し、遺留分侵害額請求への資金も試算する。生命保険は受取人指定と契約内容を別に確認し、保険金を渡せば遺留分を当然に満たすとは考えない。
- 配偶者の生活 住居・預金・保険等を組み合わせる。配偶者居住権には居住建物等の要件があり、生活全般を保障する権利ではない。持分の取得が適切かも、他の財産と併せて判断する。
- 遺言執行者 執行を担う人を指定し、対象財産と必要な権限を明確にする。専門家を選ぶこともできるが、遺言執行者が法人の機関に代わって理事長や管理者を選べるわけではない。
- 付言 なぜこの分け方を望むか、家族に何を伝えたいかを記す。付言による希望の表明と、法的な財産処分の条項を区別する。
- 予備的な定め 後継者が先に死亡した場合、承継を辞退した場合の扱い。
持分・不動産等の承継は複雑になりやすいため、公証人や弁護士と内容を整理した公正証書遺言が選択肢になります。自筆証書遺言も利用できます。法務局の保管制度を使うと家庭裁判所の検認は不要ですが、保管されたことが内容の有効性を保証するわけではありません。方式だけでなく、財産の特定、遺留分、執行方法を点検します。
4 遺留分 ― 「全部を長男に」は通るか
配偶者や子には、原則として法定相続分の2分の1に相当する遺留分があります。2019年7月1日以後に開始した相続では、侵害を受けた人は遺留分侵害額に相当する金銭を請求できます。請求によって当然に法人の持分や不動産を取り戻す仕組みではありません。後継者へ財産を集約する場合は、金銭請求への支払資金も準備します。
妻と子2人が相続人で、遺留分を計算する基礎財産が4億円、長女に控除すべき取得財産・特別受益・負担債務等がないと仮定すると、長女の個別の遺留分割合は8分の1、額は5,000万円です。誰にいくら請求できるかは遺贈・贈与等の内容によって決まります。法人の純資産4億円という数字だけでは、この計算はできません。
- 支払資金の準備 後継者を受取人とする生命保険等を検討する。指定受取人の死亡保険金は原則として固有の権利だが、遺産分割での扱い、遺留分、相続税上の扱いは分けて検討する。
- 資産と退職金の計画 適正な退職金や必要な設備投資を検討する。設備購入は現金が別の資産に替わる面があり、支出額だけ持分評価が下がるとは限らない。退職金も、実際の退任、規程・決議、相当額、個人側の課税と法人の資金繰りを確認する。
- 遺留分の放棄 相続開始前は、本人の申立てによる家庭裁判所の許可が必要。自由な意思、放棄の理由、受けた利益等が審理される。対価を払えば必ず許可されるものでも、対価が民法上の一律の必須条件であるわけでもない。
- 持分なし医療法人への移行 持分をなくす処理と定款変更、課税関係を検討する。認定制度の特例には申告等の要件がある。すでに発生した払戻請求権を一方的に消せず、遺留分への影響も別に検討する。社員・理事長の後任は法人の手続で決める。
5 遺言だけでは足りないもの
遺言は財産の承継を定める手段です。診療・法人の運営・生前の財産管理を支えるため、次の準備も併せて進めます。
| 事項 | 決める方法 |
|---|---|
| 後継者が社員・理事・理事長になること | 候補者の意向と適格性を確認し、必要な入社・選任を行う。死亡後の招集・選任・代表権の確保も整え、定款の代行条項だけに依存しない。 |
| 他の社員の協力 | 定款と法令に従う入社・選任が必要。議長、特別利害関係、定足数・決議要件も踏まえ、候補者と法人の方針について関係者と協議する。 |
| 診療の継続 | 後継者が診療できる体制、または代診(第121講)。 |
| 持分の分散防止 | 遺言で取得先を定めることに加え、生前の譲渡・持分なし移行等を検討する。税務、他の権利者の意思、既発生の請求権を確認する。 |
| 相続税の納税 | 預金・生命保険、適正な死亡退職金等の受給者と使途を確認する。認定医療法人の持分に関する納税猶予等は、対象となる権利、期限内申告・担保等の条件を満たす必要がある。 |
| 院長の判断能力が失われた場合 | 遺言には作成時の遺言能力が必要で、認知症の診断名だけで一律には決まらない。生前の財産管理や意思決定支援は別に準備し、任意後見・信託等が本人と財産の性質に合うか検討する。 |
6 今日やること・やってはいけないこと
今日やること
- 自分の事業用資産・持分等・土地建物・法人への貸付金と、個人の債務を一覧にする
- 後継者に持分と事業用資産を集約する遺言の作成を、弁護士と公証人に依頼する
- 他の相続人の遺留分と、代償資金(生命保険等)を試算する
- 定款の死亡退社・払戻・相続人入社規定と、後任選任の手続を確認する
やってはいけないこと
- 「継がせるつもり」を家族に口頭で伝えるだけで、書かない
- 持分を渡す相手の意向、換金条件、税負担、法人の資金繰りを確認せずに配分する
- 遺留分を無視して「全部後継者に」とだけ書き、代償資金を用意しない
- 遺言を書いたことで、社員・理事の構成や持分なし移行の検討を終えたと考える
7 よくある質問
- まだ50代です。遺言は早すぎませんか。
- 年齢だけで準備の要否は決まりません。今の家族構成・財産・後継候補を整理し、適法な方式で作成したうえで、状況が変わったら見直します。遺言を用意していても、診療体制と法人の後任選任は別に準備してください。
- 後継者が決まっていません。遺言に何を書けばよいですか。
- まず、財産を取得する人と診療・経営を担う人を分けて考えます。特定の人に資産を集約する方法、売却して金銭を分ける方法等を、対象財産と執行方法を明確にして検討します。遺言執行者に承継全般を白紙で委ねれば解決するわけではありません。
- 持分なし医療法人に移行すれば、遺言は不要ですか。
- 持分をなくしても、個人所有の土地・預金・法人への貸付金等は残ります。移行前に発生した払戻請求権などの処理も必要です。財産の承継と、法人の社員・理事長の後任選任を引き続き整えます。
主な法令・参考資料
- 医療法
開設・管理者、医療安全、立入検査・監督、医療法人の役員資格・機関等。
https://laws.e-gov.go.jp/law/323AC0000000205
- 民法
委任・善管注意義務、契約上の責任、不法行為、使用者責任等。
https://laws.e-gov.go.jp/law/129AC0000000089
- 厚生労働省:持分なし医療法人への移行に関する手引書
持分あり・持分なしの類型と移行制度。期限等は資料の作成時点による。
https://www.mhlw.go.jp/content/10800000/000940229.pdf
- 厚生労働省:社団医療法人定款例
社員の入退社、社員総会の議長・決議、役員等に関する定款例。
https://www.mhlw.go.jp/file/06-Seisakujouhou-10800000-Iseikyoku/0000205243.pdf
- 国税庁:財産評価基本通達194-2
医療法人の出資の税務評価。離婚時の評価や退社時の払戻額とは区別。
https://www.nta.go.jp/law/tsutatsu/kihon/sisan/hyoka_new/08/06.htm - 国税庁:相続税の申告と納税
No.4205。申告・納付期限と未分割の場合の取扱い。
https://www.nta.go.jp/taxes/shiraberu/taxanswer/sozoku/4205.htm - 裁判所:遺留分放棄の許可
生前放棄の許可手続。侵害額請求と金銭債権。
https://www.courts.go.jp/saiban/syurui/syurui_kazi/kazi_06_26/index.html - 裁判所:遺言書の検認
検認の目的、法務局保管の自筆証書遺言・公正証書遺言の取扱い。
https://www.courts.go.jp/saiban/syurui/syurui_kazi/kazi_06_17/index.html - 国税庁:相続税の課税対象になる死亡保険金
No.4114。保険料負担者・受取人と相続税の取扱い。
https://www.nta.go.jp/taxes/shiraberu/taxanswer/sozoku/4114.htm - e-Gov法令検索:保険法
生命保険契約と保険金受取人に関する規定。
https://laws.e-gov.go.jp/law/420AC0000000056