第143講 「高く売れます」は本当か― 医療機関の価値と院長依存
第ⅩⅤ部 M&A・出口戦略・廃業・危機管理
提示された価格を見るときは、金額と一緒に、その前提を確かめます。診療の体制、地域での信頼、職員、設備、収益力は、承継後も同じとは限りません。院長への依存が大きい場合も、直ちに売れないわけではありませんが、後任の確保と診療の引継ぎが、価格や条件を左右します。
この講では、医療機関の価値が何で決まるのか(資産・収益・営業権・院長依存)、買い手がどう評価するのか、院長依存をどう測り、どう下げるのか、そして「高く売れます」の数字をどう検証するのかを整理します。第118講(離婚時の病院の価値)と同じ問いを、売却の場面で扱います。
例えば、仲介会社の担当者は、理事長にこう言いました。「先生のクリニックは、年間の医業収入2億円、営業利益4,000万円。同じ規模の成約事例では、営業利益の5倍で売れています。2億円です」
理事長は、自分の外来を思い浮かべました。一日90人の患者のうち、70人は自分が診ている。20年来の患者が多く、「先生でなければ」と言う人もいる。もう一人の常勤医は3年目で、まだ患者に顔を覚えられていない。
理事長は聞きました。「私がいなくなっても、2億円ですか」
担当者は少し考えて、答えました。「先生に、しばらく残っていただければ」。
1 医療機関の価値は何で決まるか
| 評価する要素 | 内容と承継時の確認事項 |
|---|---|
| 資産と負債 | 現預金、医療機器、不動産、借入、未払金等を確認し、必要に応じて時価や簿外債務を反映する。同じ法人が続く場合、資産と負債はその法人に残る。持分の売買代金と法人の現金の移動は別の話である(第141講)。 |
| 収益力 | 役員報酬や一時的な損益を調整した利益、資金収支を確認する。代診・後任医師の費用、設備更新、運転資金、承継後の診療体制を織り込む。 |
| 患者基盤 | 患者数、受診の継続状況、疾患構成、地域の人口、紹介経路などを集計する。通院先は患者が選び、承継契約で継続受診を確約することはできない。 |
| 医師・職員 | 必要な資格・人数、経験、勤務条件、継続勤務の意向を確認する。同じ法人なら雇用は原則として続くが、事業譲渡では承継手続が異なる。退職や採用難も想定する。 |
| 許認可・施設基準 | 開設・保険指定、病床、施設基準等を確認する。法人が同一でも、人員・設備・診療実態等の要件と変更手続は点検が必要。事業譲渡では新規手続と診療開始日を確認する。 |
| 立地・設備 | 場所、建物、賃貸借、設備更新と修繕の費用。賃貸借の承諾が必要かは、賃借人が変わるか、契約に経営体制変更時の条項があるか等で異なる(第119講・第128講)。 |
| 名称・地域の信頼 | 院長個人への信頼と、医療機関の体制への信頼を分けて考える。名称の継続、地域との連携、患者・紹介元への説明を検討する。 |
2 買い手はどう評価するか
営業利益とEBITDAは異なる指標です。EBITDAは利息・税金・減価償却等の影響を除いて収益力を見る指標で、実務では営業利益に減価償却費等を加えて算定することがあります。比較する際は、利益の定義、調整項目、倍率を計算した基礎をそろえてください。
評価には、時価純資産、類似する取引の倍率、将来の資金収支を現在価値に直す方法などがあります。倍率から事業価値を求める方式では、余剰資金や借入等を調整して持分の価値につなげます。一方、時価純資産に営業権相当額を加える方式もあります。計算の仕組みを混ぜて、現金・負債・営業権を重複して加減しないことが大切です。
| 評価の観点 | 具体的に確かめること |
|---|---|
| 利益の正常化 | 理事長の診療・経営業務を代替する人件費を見積もる。親族報酬や賃料は、承継後に本当に減らせる部分と、必要な仕事・物件の代替費用を分ける。一時的な収入・費用も根拠を示して調整する。 |
| 収益の持続性 | 院長交代、後任の専門性、診療日数、患者の希望、紹介経路等による変化を複数のシナリオで試算する。担当患者の比率だけから、売上や利益の減少率を決めない。 |
| 医師の確保 | 後任の診療能力、採用時期、勤務条件、費用を確認する。別施設から配置する場合も、労働関係、管理者の要件、既存施設への影響を確認する。 |
| 設備・運転資金 | 更新・修繕費と日々の運転資金を見積もる。設備投資を将来収支に織り込んだうえで、さらに同額を価格から引くなどの二重計上を避ける。 |
| 過去のリスク | 未払賃金、返還、税務、紛争等をDDで確認し、価格調整・精算・補償のどこで扱うかを明確にする(第142講)。 |
| 買い手固有の条件 | 既存施設との連携、新規開業との比較、採用力や資金調達などで評価は変わる。想定する連携効果にも費用と実現の不確実性がある。 |
設例の2億円は、計算式だけを示した段階の数字です。院長が90人中70人を診ているという情報だけで、承継後の利益が半減するとも、価格が1億円になるともいえません。後任、引継ぎ期間、診療体制の変化を具体化して再計算します。将来の業績に応じて代金を追加するアーンアウトは選択肢の一つですが、将来必ず受け取れる額とは区別します。
3 院長依存を測る
院長依存の指標
- 担当患者比率 院長が担当する患者数・診療収益の割合を、診療科や内容も分けて調べる。高いほど引継ぎへの備えが重要になるが、「7割なら高依存、3割なら低依存」という共通の判定基準があるわけではない。
- 紹介の経路 誰のつながりで紹介され、承継後もその連携を続けられるかを確認する。院長個人の関係からの紹介でも、後任の紹介や診療体制の説明により継続を図れる。
- 他の医師の定着 院長以外の医師の在籍年数、患者からの指名、承継後も残る意思。
- 幹部職員の定着 看護師長・事務長の在籍年数と、承継後も残る意思。職員が院長個人に付いているか、医療機関に付いているか。
- 診療の引継ぎ 診療方針、重要な判断の経緯、安全管理の手順を共有する。手順書だけで経験や技術を置き換えられるわけではないため、後任の能力と診療範囲を確認する。
- 対外関係の帰属 金融機関・行政・医師会・取引先との関係が、院長個人か、医療機関か(第130講)。
- 名称と情報発信 院長の姓を使う名称を続けるか、変更するかを協議する。姓が含まれることだけで変更義務が生じるわけではなく、使用の承諾、名称の権利、誤解を招かない表示と届出を確認する。
4 院長交代に備えて診療体制を整える
- 診療を計画的に引き継ぐ 患者の希望、病状、後任の専門性を踏まえ、紹介・共同診療などを進める。価格を上げるためだけに担当を機械的に変えない。丁寧に引き継いでも、全員が継続受診するとは限らない。
- 紹介元と連携する 後任の医師や体制を紹介し、診療上必要な連絡経路を整える。紹介状の宛名を変えるだけで、紹介が継続するわけではない。
- 医師と勤務条件を話し合う 承継後の役割、報酬、勤務体制、支援体制を説明し、必要な合意を進める。買い手の承認が必要な処遇を、売り手だけで確約しない(第Ⅳ部)。
- 幹部職員を育てる 院長がいなくても外来が回る体制。事務長・看護師長への権限委譲。
- 診療と運営を文書化する 診療の手順、業務の手順、取引先の一覧、契約の一覧。第130講の六つの承継の「①経営権」「③診療」「④職員」「⑤対外関係」。
- 情報発信を整える 院長だけでなく、診療体制、他の医師、継続するサービスを正確に伝える。医療広告の規制に従い、交代後の勤務や診療内容について誤解を招く表示を残さない。
診療体制を整えることは、第三者承継だけでなく、親族への承継や院長の病気への備えにもなります。承継のためだけに人員や設備を増やすのではなく、必要な診療を続けられる体制と、その費用を考えて進めてください。
5 「高く売れます」を検証する
提示価格の検証
- 根拠を書面で どの数字(純資産・営業利益・倍率)から、どう計算したか。「成約事例」は、どの地域の、どの診療科の、どの規模の、いつの事例か。
- 正常化後の営業利益 役員報酬・親族取引・一時的な損益を引き直した数字を、自分で(税理士と)出す。
- 院長依存の反映 第3章の指標で自院を評価し、承継後の収益がどう変わるかを推定する。提示価格がそれを反映しているか。
- 買い手の検討状況 単に候補として登録されているのか、自院の資料を確認して価格を提示したのかを区別する。資金調達、社内承認、DD等の前提条件も確認する。
- 条件の内訳 一括払いか、アーンアウトか、引継ぎ期間の条件は。「2億円」が「1億円+2年後の条件付き1億円」なら、別の話(第146講)。
- 手取りの計算 誰が、持分・退職金・不動産等のどの名目で受け取るかを分け、取得費、税、手数料、専門家費用、留保金等を計算する。退職所得の要件や短期在任の特例にも注意する(第141講・第144講)。
- 他の選択肢との比較 継続経営、親族・職員への承継、第三者承継、閉院について、将来の税引後収支、投資・借入・保証、働く期間、健康と診療継続を比べる。将来受け取る金銭は時期と不確実性を考慮し、単純な合計額だけで決めない。
6 今日やること・やってはいけないこと
今日やること
- 自院の外来患者のうち、院長が診ている割合を出す
- 役員報酬・親族取引を引き直した「正常化後の営業利益」を税理士と出す
- 承継の予定がなくても、診療の引継ぎ・医師の定着・運営の文書化を進める
- 仲介会社の提示価格には、根拠と成約事例の詳細を書面で求める
やってはいけないこと
- 「営業利益の〇倍」をそのまま自院の価値だと考える
- 院長交代後の体制を検討せず、現在の利益がそのまま続くと見込む
- 提示価格に、引継ぎ期間や条件付き支払の条件が含まれていることを見落とす
- 「売れる」ことと「今売るべき」ことを混同する
7 よくある質問
- 院長依存が高くても、私が2〜3年残れば価値は維持できますか。
- 継続診療や後任への引継ぎに役立つ可能性はありますが、2〜3年残れば価値が維持できるという保証はありません。健康状態、勤務日数、後任、役割・権限・報酬、早期退任時の扱いを決めます。アーンアウトを使うなら、計算方法、経営方針変更の影響、確認できる資料、支払期限、紛争処理を具体化します(第146講)。
- 純資産が大きく現預金が多い法人です。それだけで高く売れませんか。
- 現預金は承継後も法人に属します。医療法人では剰余金を配当できず、法人運営に必要な資金も残さなければなりません。価格への影響は、借入、運転資金、設備更新、使途の制約、承継方法等で変わり、現預金の全額がそのまま価格に上乗せされるとは限りません。法人の資金と退任者の受取額を分けて確認してください。
- 新規開業する医師にとって、私のクリニックを買うことに、どんな価値がありますか。
- 既存の診療体制、職員、立地、設備、地域との関係を引き継げることが利点になり得ます。ただし、患者や職員の継続は保証されず、設備更新や採用が必要な場合もあります。同じ法人が開設者として続く場合でも管理者・施設基準等を確認し、事業譲渡では新規の開設・指定手続を進めます。買い手は新規開業の費用だけでなく、立上げ期間、収支、リスクも比較します。
主な法令・参考資料
- 医療法
開設・管理者、医療安全、立入検査・監督、医療法人の役員資格・機関等。
https://laws.e-gov.go.jp/law/323AC0000000205
- 民法
委任・善管注意義務、契約上の責任、不法行為、使用者責任等。
https://laws.e-gov.go.jp/law/129AC0000000089
- 健康保険法
58条3項、65条、70条の2、71条、73条、78条〜82条等。管理者の責務、指定・登録の取消しを含む。
https://laws.e-gov.go.jp/law/211AC0000000070
- 近畿厚生局:保険医療機関・保険薬局の指定等に関する申請・届出
外来医師過多区域の事前届出と保険指定期間、管理者変更等の手続。
https://kouseikyoku.mhlw.go.jp/kinki/shinsei/shido_kansa/hoken_shitei/index.html
- e-Gov法令検索:所得税法
25条のみなし配当、37条・45条の経費・家事費等。
https://laws.e-gov.go.jp/law/340AC0000000033 - 中小機構:事業承継支援マニュアル(2025年版)
M&Aの進め方、価格評価、DD、仲介・FA、基本合意・最終契約の説明と様式。医療法人には別途、医療法等に沿う検討が必要。
https://www.smrj.go.jp/supporter/tool/guidebook/succession2/ - 国税庁:株式等を譲渡したときの課税
No.1463。一般株式等の譲渡所得等の計算、税率、申告分離課税。
https://www.nta.go.jp/taxes/shiraberu/taxanswer/shotoku/1463.htm - 国税庁:退職金を受け取ったとき
No.1420。退職所得の計算、退職所得控除、特定役員退職手当等。
https://www.nta.go.jp/taxes/shiraberu/taxanswer/shotoku/1420.htm