『退職・競業・営業秘密29講 ― 「辞めた社員」と「持ち出された情報」の教科書 ―』【第1講】
なぜ「退職」が最も揉める局面なのか ― 守るべきは人・情報・顧客
第Ⅰ部 退職紛争の地図 ─ 明徳法律事務所
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企業法務の相談の中で、「社員が辞めた」ことをきっかけに始まる紛争は驚くほど多く、しかも深刻です。理由は単純で、退職は会社が持っている資産のうち、登記も担保もできない三つのもの――人・情報・顧客――が、同時に外へ出ていく瞬間だからです。
工場や在庫は動きません。しかし、営業担当者が持つ取引先との関係、技術者の頭の中にあるノウハウ、管理職が把握している部下の適性と待遇――これらは人に付着しており、その人が退職すれば一緒に移動します。しかも、退職者の多くは「自分が築いた関係」「自分が覚えた技術」と考えており、会社の資産という意識が薄い。ここに、会社と退職者の認識のずれが生まれます。
第一に競業。退職者が同業他社に転職する、あるいは同業で独立する。会社は競業避止義務違反を主張し、退職者は職業選択の自由を主張します(第Ⅱ部)。
第二に引き抜き・顧客奪取。退職者が元同僚を誘って一緒に辞める、元顧客に営業をかける。会社は「組織的な引き抜き」「顧客の不当な奪取」を主張し、退職者は「転職の勧誘は自由」「顧客が自分を選んだ」と反論します(第Ⅲ部)。
第三に情報の持ち出し。顧客名簿、設計図、価格表、ソースコードがUSBメモリやクラウド経由で持ち出される。会社は営業秘密侵害を主張しますが、その情報が法律上の「営業秘密」の要件を満たしていなければ、不競法の武器は使えません(第Ⅳ部)。
この三類型に共通するのは、会社側の対応力が、退職者が辞める前の準備に大きく左右されるという点です。退職後の競業避止義務は、原則として就業規則・誓約書・個別契約等による根拠が必要です。営業秘密についても、持ち出し時点で秘密管理性・有用性・非公知性の三要件を満たしていたことを示す必要があります。引き抜きの違法性は、行為の時期・態様・組織性などを証拠で示せるかが重要です。退職後に初めて書面や管理体制を整えても、過去の状態を遡って作ることはできません。
もう一つの前提として、労働者には退職の自由があります(民法627条、憲法22条1項)。期間の定めのない雇用契約については、民法627条1項上、原則として解約申入れから2週間で終了し、会社の承諾がなければ退職できないというものではありません。就業規則による申出期限との関係には見解・裁判例の相違があるため、個別の規定も確認が必要です。退職届を受け取らないことだけで退職の効力を阻止することはできず、根拠のない損害賠償請求を示して退職を断念させるなどの不当な退職妨害は違法となり得ます。他方、現実に発生した損害について適法な請求を留保・説明することまで当然に禁止されるわけではありません。
この連載で扱うこと
第Ⅰ部で法的枠組みと使える手段を確認し、第Ⅱ部で競業避止義務(従業員・取締役)、第Ⅲ部で引き抜き・顧客奪取、第Ⅳ部で営業秘密・限定提供データと持ち出しへの対応、第Ⅴ部で予防のための書式と運用を扱います。
実務ポイント
・退職で流出するのは「人・情報・顧客」。いずれも登記も担保もできない資産。
・紛争対応力は、退職前の準備(有効な契約・秘密管理の運用記録・証拠)に大きく左右される。
・退職自体は止められない。目標は「辞めさせない」ではなく「持ち出させない」。
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