第35講 紹介された医師が3か月で辞めた― 返金条項と採用失敗
第Ⅳ部 医師の採用・退職・独立
紹介した医師が早期退職したら、まず紹介契約の返戻金の条件と期限を確認します。同時に、退職までの経緯を整理し、診療体制を立て直します。返戻金の対象外でも、紹介会社の説明や業務に問題があれば、別の請求根拠を検討する余地があります。
この講では、早期離職が起きたときの返戻金の請求手順と、退職理由をめぐる紹介会社との議論、それから、もう一つ手前の段階——採用を決めた後に取り消したくなった場合——の法的な整理をまとめます。
例えば、次のような場面を考えてみてください。紹介会社経由で採用した常勤医師が、3か月で退職しました。退職届の理由欄は「一身上の都合」。ただ、面談で本人が漏らしたのは「聞いていた当直の回数と違う」「外来の患者数が多すぎる」という不満でした。
紹介会社に返戻金を求めると、担当者はこう言いました。「先生のクリニック側の事情による退職ですので、返戻の対象外です」
1 返戻金の請求 ― まず期限を確認する
返戻金の条件は、手数料表だけでなく、紹介契約書、規約、提案書や個別の合意も確認します。退職の申出があったら、対象期間・返戻率・退職理由・通知期限を調べてください。退職から一定期間内の通知を条件にする契約では、期限を過ぎると対象外とされるおそれがあります。退職日が未確定でも、必要な連絡を先送りしないことが大切です。
契約で指定された宛先・方法に従い、到達の記録が残る形で通知します。書面指定なのにメールだけで足りるとは限りません。退職日、請求の根拠、必要資料を示し、理由等が未確定ならその旨と追完予定を伝えます。退職届の写し等は、利用目的と提供の根拠を確認し、必要な範囲に限って共有してください。
2 「クリニック側の事情」という反論への対応
返戻金の除外条項に「求人者側の事情」とある場合は、具体的に何を指すかを確認します。求人票と実際の勤務条件の相違は重要ですが、それだけが判断材料ではありません。
求人票と勤務条件が一致していても、ハラスメント、安全配慮の問題、採用時の別の説明などが退職に影響した可能性は残ります。逆に、本人が不満を述べただけで求人者側の事情と決まるものでもありません。退職届の「一身上の都合」だけでなく、具体的な理由と契約上の条件を照合します。
求人票、条件変更の説明、労働条件通知書、面談記録、実際の勤務実績を時系列に並べます。紹介会社には、どの条項に基づき、どの事実を理由に対象外とするのか、具体的な説明を求めてください。資料をそろえることで争点を絞りやすくなります。
紹介会社が候補者へ何を説明したかも確認します。本人の説明を記録し、可能ならメール等も確認してください。紹介会社が誤った説明をした場合でも、医療機関の指示・承認や採用時の説明との関係を調べ、責任の所在を判断します。紹介会社だけの問題と即断しないことが大切です。
3 なぜ辞めたのか ― 次の採用のために
返戻金の請求と並行して、早期離職の原因を整理します。例えば次の観点が考えられますが、理由が複数重なる場合もあります。本人や職員の話を落ち着いて聞き、事実と評価を分けて記録してください。
- 条件の相違——当直の回数、外来の負担、研究日の扱い、報酬の構成。求人票と実際がずれていた。
- 院内の関係——院長との診療方針の違い、看護師や事務との関係、既存の医師との軋轢。
- 本人の事情——家庭、体調、他院からの誘い(第40講)。
- 期待の不一致——「専門外来を任せてもらえると思っていた」「もっと裁量があると思っていた」といった、契約書には書かれない期待のずれ。
担当業務や期待する役割を採用時に具体的に説明し、入職後も定期的に面談すると、認識のずれを早めに把握できます。ただし、定着だけを目的に問題を見過ごさず、医療安全や職場環境への対応も進めてください。本人の健康・家庭事情など、条件調整だけでは解決できない場合もあります。
4 採用を決めた後で、取り消したいとき
紹介会社経由で採用を決め、入職日も決まった後に、事情が変わることがあります。別の医師の採用が決まった、候補者について気になる情報が入った、業績が急に悪化した。このとき「まだ働いていないのだから、断ればよい」と考えるのは危険です。
最高裁昭和54年7月20日判決(大日本印刷事件)は、採用手続と通知・誓約書の内容等から、就労開始時期と取消事由を定めた労働契約の成立を認めた事案です。「内定」という名称だけで、すべて同じ契約が成立するわけではありません。まず、申込みと承諾、条件、今後予定された手続を確認します。
同判決は、内定当時には知り得ず、知ることも期待できないような事情であり、留保した解約権の趣旨に照らして、取消しが客観的に合理的で社会通念上相当と認められることを求めました。既に労働契約が成立しているなら、就労前でも自由には取り消せません。解雇の規制や、契約が有期かどうかも含めて検討します。
医師が入職に向けて前職を辞めたり転居したりしている場合、取消しの影響は大きくなります。通知前に根拠を検討し、必要なら補償を含む合意解決を協議します。入職日や条件を一方的に変更したり、辞退を強要したりしてはいけません。また、紹介会社への手数料・取消料は医師との契約とは別に確認します。
5 今日やること・やってはいけないこと
今日やること
- 退職の申出があったら、契約・規約・手数料表等の返戻条件と期限を確認し、指定された方法で通知・請求する
- 求人票・雇用契約書・実際の勤務実績を並べ、条件の相違がないかを確認する
- 退職した医師が「紹介会社からどう聞いていたか」を書き留める
- 入職後1か月の面談を、院長の予定に組み込む
やってはいけないこと
- 返戻金の請求期限を過ぎてから動く
- 「クリニック側の事情ではない」ことを示す資料なしに、紹介会社と水掛け論をする
- 内定を出した後に、理由の検討なしに「やはり採用しない」と告げる
- 早期離職の原因を「本人の問題」で片づけて、次も同じ条件で募集する
6 よくある質問
- 手数料表に返戻金の定めがありません。請求できませんか。
- 手数料表以外の契約書、規約、説明資料、個別の約束も調べてください。早期退職だけで当然に返金される制度ではありませんが、返戻合意がある場合や、紹介会社の義務違反等がある場合には、返還・賠償を検討できます。定めがなければ一律に諦めるのではなく、請求の根拠を分けて確認します。
- 再紹介を提案されました。受けるべきですか。
- 再紹介は、返戻金の代わりとして提案されることが多い仕組みです。受けるかどうかは、早期離職の原因が解消されているか、再紹介の候補者の質、時間的な余裕によります。「返戻金か再紹介か」を選べる定めなら、条件を確認したうえで選んでください。再紹介を受けたことで返戻金の権利を失う定めになっていないかも確認が必要です。
- 内定を出した医師について、気になる情報を聞きました。取り消せますか。
- 採用手続がどこまで進み、どのような契約が成立しているかを確認したうえで、情報の真偽と重要性を調べます。重要な資格・経歴の虚偽でも、内定時に知り得たか、採用判断へどう影響するか等の検討が必要です。噂だけで決めず、必要な範囲で本人への確認・弁明の機会も設け、通知前に相談してください。
主な法令・参考資料
- 民法
契約、委任、責任、相続・財産分与。768条の改正を含む。
https://laws.e-gov.go.jp/law/129AC0000000089
- e-Gov法令検索:労働契約法
16〜19条。解雇、有期契約、無期転換、雇止め。
https://laws.e-gov.go.jp/law/419AC0000000128 - 厚生労働省:採用内定の取消
大日本印刷事件等の概要と判示の骨子。
https://www.check-roudou.mhlw.go.jp/hanrei/saiyo/torikeshi.html - 全国労働基準関係団体連合会:大日本印刷事件
昭和52年(オ)94号。判決理由の抄録。
https://www.zenkiren.com/Portals/0/html/jinji/hannrei/shoshi/00173.html