第55講 「あの先生とは働けません」― 医師同士の対立を放置しない
第Ⅵ部 ハラスメント・院内人間関係
医師同士の対立は、クリニックで最も扱いにくい人間関係の問題です。専門職どうしの意見の相違には、院長であっても「どちらが正しい」と裁定しにくい部分があり、放置すれば、看護師の派閥化、指示の混乱、そして患者の安全に及びます。
この講では、医師同士の対立を「人間関係の問題」ではなく「経営と安全の問題」として扱うための枠組みを示します。院長が裁定すべきこと、裁定してはいけないこと、そして、対立が解けないときの分離の設計です。
例えば、「B先生の処方には賛成できません。私の患者にはB先生を関わらせないでください」
副院長のA医師が院長室でそう言った翌日、B医師からも同じ趣旨の申出がありました。二人の対立は診療方針から始まり、いまはカンファレンスでも口をきかない。看護師は「A先生派」「B先生派」に分かれ、指示の食い違いで採血が二重に行われる事故が一件起きています。
院長は考えます。どちらが正しいのか。そして、それを自分が決めてよいのか。
1 対立の中身を分ける ― 裁定できるものと、できないもの
医師同士の対立には、性質の違うものが混ざっています。院長がすべきことの一つは、その中身を分けることです。
| 対立の種類 | 院長の立場 |
|---|---|
| 診療方針の相違 | 院長一人で専門領域の当否を決めず、根拠、患者の状態・意向、担当医の説明を確認し、必要なら院内外の専門家を交える。標準方針と例外時の相談手順を定め、他の医師が安全上の疑問を伝える経路も必ず残す。 |
| 権限と担当の争い | 担当、指示権限、不在時の代行、緊急時の判断経路を、管理者と権限を持つ担当者が明確にする。契約上の職務や資格の範囲にも配慮する。 |
| 報酬・処遇の不公平感 | 職務、責任、勤務条件等に応じた処遇基準を確認し、本人の処遇の理由を説明する。他の医師の個別の報酬を不必要に開示せず、不合理な差があれば見直す。 |
| 感情・性格の不和 | 仲良くなることを強制せず、言動や業務への影響に着目する。ハラスメント等が混在していれば、単なる相性として処理しない。必要に応じて関係調整と接触の軽減を検討する。 |
2 患者の安全に及んだら、迷わず介入する
指示の食い違いによる重複した採血は、患者の安全を損なう問題です。管理者は従業者を監督し、病院・診療所の管理運営に必要な注意をしなければなりません(医療法15条1項)。事故が起きるまで待たず、危険の兆候があれば介入します。具体的な義務違反の有無は、把握した危険と取った対応などによって判断されます。
まず患者への影響を確認し、必要な診療と危険の除去を行います。そのうえで、指示、時刻、確認の経路、影響を記録し、両医師や関係者から事情を聞きます。個人間の対立だけでなく、オーダーの仕組みや引継ぎの不備も点検し、説明と再発防止につなげます。
3 分離の設計 ― 解けない対立に対する現実的な答え
協議で改善する対立もありますが、解消に時間がかかる場合は、診療に支障が出ないよう役割や接触を調整します。ただし、分離によって相談や診療情報の共有まで途切れない設計が必要です。
- 担当の整理。主担当と代行者を明確にし、重複した指示を防ぐ。共同診療、救急対応、引継ぎ、安全上の確認は妨げず、必要な診療情報は共有する。
- 時間や場所の調整。必要に応じて勤務時間帯や診療場所を分ける。契約、勤務負担、患者の継続診療に配慮し、調整の効果を見直す。
- 指示系統の明確化。主担当、不在時の代行者、意見が割れたときの確認先を決める。危険が疑われる指示は、そのまま実行せず、必要な安全確保と確認を行える手順にする。
- スタッフへの説明。担当と確認経路を全員に伝える。どちらかの医師を支持するよう求めず、疑問や安全上の懸念を安心して報告できる状態を保つ。
分離が機能すれば、対立は「仲が悪い二人が同じ組織にいる」という状態に落ち着きます。それは理想ではありませんが、診療が回り、患者に影響しない限り、経営としては許容できる状態です。
4 それでも続くなら ― 雇用関係の見直し
指示の妨害、侮辱、業務上必要な協力の拒否などが続く場合は、具体的な行為と影響を確認して指導・措置を検討します。医学的な異論や安全上の通報そのものを問題行動と扱ってはいけません。懲戒・解雇の要件、本人の説明、改善可能性などを個別に検討し、危険の防止は並行して行います(第47・48講)。
一方が退職する場合は、患者の引継ぎ、診療情報の適切な管理、スタッフへの対応を整理します。近隣での開業や職員の転職それ自体が違法というわけではありません。競業避止や勧誘制限の有効性は内容と事情によるため、契約や誓約書があるだけで禁止できると考えないでください(第39・40講)。
5 今日やること・やってはいけないこと
今日やること
- 対立の中身を、診療方針・権限・処遇・感情に分けて書き出す
- 担当患者と指示系統のルールを明文化し、医師とスタッフの双方に示す
- 指示の食い違いによる事象があれば、インシデント報告として記録する
- 報酬・処遇の格差について、自分で説明できるかを点検する
やってはいけないこと
- 医学的な根拠や患者の状況を確認せず、役職だけで正しさを決める
- スタッフにどちらかの医師への支持を求める(具体的な事実や安全上の懸念の聴取は行う)
- 患者の安全に影響が出ているのに、人間関係への配慮を優先する
- 対立を「二人の問題」として、経営者の関与を避ける
6 よくある質問
- 副院長と勤務医の対立です。副院長の言うことを優先させてよいですか。
- 権限の範囲内の業務指示には従うことが基本ですが、役職だけで医学的な正しさは決まりません。危険や根拠への疑問があるときは、担当医、管理者、必要な専門家に確認できる経路を設けます。「担当医の判断だから他の医師は意見を言えない」という運用も避けてください。
- 片方の医師に辞めてもらいたいのですが。
- 対立だけで解雇が当然に有効になるわけではありません。具体的な問題行動と影響、指導や調整の状況などを踏まえ、労働契約法16条等の要件を検討します。有期契約の期間途中の解雇には同法17条の「やむを得ない事由」が必要です。退職の協議はできますが、本人の自由な意思を尊重し、合意を強制しないでください。
- スタッフが派閥に分かれてしまいました。
- 業務上の指示と確認経路を明確にし、職員を医師同士の争いに巻き込まないことが大切です。必要な情報共有、安全上の意見、ハラスメントの相談を封じないでください。仲が良いというだけで「派閥」と決めつけず、無視や業務妨害など具体的な行為があれば公正に確認します。
主な法令・参考資料
- 医療法
社員総会、役員、管理者、医療事故調査、開設・承継に関する規定。
https://laws.e-gov.go.jp/law/323AC0000000205
- e-Gov法令検索:労働契約法
16〜19条。解雇、有期契約、無期転換、雇止め。
https://laws.e-gov.go.jp/law/419AC0000000128 - e-Gov法令検索:労働施策総合推進法
30条の2(相談対応・不利益取扱い禁止)、30条の5・6(援助・調停)。
https://laws.e-gov.go.jp/law/341AC0000000132 - 厚生労働省:パワーハラスメント防止指針
令和2年告示第5号。三要素、判断基準、相談・調査・再発防止等。2026年9月時点の適用内容。
https://www.mhlw.go.jp/content/11900000/000605661.pdf