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『退職・競業・営業秘密29講 ― 「辞めた社員」と「持ち出された情報」の教科書 ―』【第9講】

取締役の競業避止義務と会社法356条・423条

取締役と会社の関係は原則として委任であり、会社法上の忠実義務・競業取引規制等が中心となります。ただし、従業員兼務取締役など、実態に応じて労働者としての地位も併存する場合があります。退任後には会社法356条の競業取引規制それ自体は及ばないため、必要に応じて役員委任契約・退任合意等による手当てを検討します。

在任中 ― 会社法356条1項1号の競業取引規制

取締役が自己または第三者のために「株式会社の事業の部類に属する取引」を行うには、株主総会(取締役会設置会社では取締役会)の承認を受けなければなりません(会社法356条1項1号、365条1項)。承認を得ずに競業取引を行った場合、取締役は任務懈怠責任を負い(会社法423条1項)、その取引によって取締役または第三者が得た利益の額が、会社の損害額と推定されます(同条2項)。この推定規定により、会社は損害額の立証負担を大幅に軽減されます。

「事業の部類に属する取引」とは、会社が現に行っている事業と市場において競合し、会社と取締役の間に利益衝突を来す可能性のある取引です。会社が進出を計画して準備を進めている事業も含まれると解されています。取締役自身が競業会社の代表者として取引をする場合だけでなく、競業会社の実質的な支配者として取引を行わせる場合も規制対象です。

在任中の「準備行為」

取締役が在任中に競業会社の設立準備をすること自体は、直ちに356条違反にはなりません。しかし、取締役は忠実義務(会社法355条)を負っており、在任中に会社の従業員に対して組織的に退職・移籍を働きかける、会社の顧客に対して新会社との取引を勧誘する、会社の情報を新会社の準備に用いる、といった行為は忠実義務違反として任務懈怠責任を生じます(第14講)。

退任後 ― 会社法上の義務はない

取締役が退任すると、会社法356条の競業取引規制それ自体は及びません。したがって、「元取締役である」という理由だけで退任後の競業を当然に禁止することはできず、退任後の競業避止特約の有無・有効性が問題となります。ただし、退任前の忠実義務違反、営業秘密の使用、不法行為等についての責任まで消滅するわけではありません。

退任後の競業避止特約についても、職業選択・営業の自由との関係から、守るべき利益、期間、地域、禁止行為、代償等を総合して合理性を判断します。取締役が経営中枢にあり重要情報へ深くアクセスしていたことは会社側の保護利益を基礎づける事情となり得ますが、「取締役なら従業員より広い条項が当然に有効」と一般化することはできません。

実務上の設計

取締役については、①就任時の役員委任契約で、法令上の忠実義務・秘密保持に加えて必要な事項を具体化する、②退任時に、秘密情報の返還・退任後の競業制限等について必要に応じて合意する、③退職慰労金について競業等を考慮する場合は、会社法上の決定手続、規程の内容、退任者の背信性、支給・返還の法的根拠を整理する、という対応を検討します。競業避止、株式処理、退職慰労金は互いに関係し得ますが、それぞれの法的根拠を区別して合意内容を明確にすることが重要です。

オーナー企業や創業メンバーの退任では、役員関係の終了だけでなく、保有株式、会社貸与物、秘密情報、顧客・従業員への働きかけ等が同時に問題になることがあります。退任合意を作成する場合は、各論点の権利義務を分けて整理し、競業避止の対価や退職慰労金・株式譲渡対価を混同しないようにします。

実務ポイント

・在任中は会社法356条の競業取引規制、355条の忠実義務、423条の任務懈怠責任等を検討する。

・退任後は会社法356条の規制それ自体は及ばない。競業制限は特約の有無・有効性を確認し、営業秘密侵害等は別途検討する。

・取締役の退任後特約も総合判断。経営上の地位は重要な事情だが、無限定な制約が当然に有効になるわけではない。

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