『退職・競業・営業秘密29講 ― 「辞めた社員」と「持ち出された情報」の教科書 ―』【第2講】
職業選択の自由と営業秘密保護 ― 対立する二つの要請
第Ⅰ部 退職紛争の地図 ─ 明徳法律事務所
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退職をめぐる法律問題では、退職者の職業選択の自由(憲法22条1項)と、会社側の営業上の利益・財産権、公正な競争秩序の保護を調整する視点が重要です。もっとも、すべての争点が直接の憲法判断になるわけではなく、個別の契約、不競法、会社法、不法行為法等の要件を通じて具体的に判断されます。
退職者が、前職で得た経験・技能・人脈を活かして働くことは、原則として自由です。前職の顧客と取引すること、同業他社に就職すること、同業で独立することも、それ自体は違法ではありません。裁判所は、「労働者が就業中に得た知識・経験は労働者自身のものである」という立場を基本にしています。したがって、会社が「うちで覚えた技術を使うな」と主張しても、それが一般的な知識・技能である限り、法的には通りません。
退職者との関係で会社が保護を求める典型的な法的根拠は、①営業秘密(不競法2条6項)その他の保護対象情報、②有効な秘密保持・競業避止等の契約上の義務、③社会的相当性を逸脱した引き抜き・顧客奪取行為等についての不法行為責任(民法709条)です。事案によっては著作権、個人情報保護法、取締役の忠実義務等が問題になることもあります。退職者の一般的な知識・経験や自由な競争活動を過度に制約することには、裁判所は慎重です。
裁判所が両者を比較衡量する際に見るのは、次のような要素です。会社側の重りとしては、保護すべき利益の具体性(漠然とした「ノウハウ」ではなく、特定の顧客リストや技術情報か)、その利益が会社の投資によって形成されたものか、退職者の行為の態様(計画性・秘密性・組織性)。退職者側の重りとしては、制約の範囲(期間・地域・職種)、退職者の地位(経営中枢か一般従業員か)、代償措置の有無、退職の経緯(会社の都合による解雇か自己都合か)。
会社側の相談で注意したいのは、退職者の行為が「不誠実」「恩知らず」であることと、法的責任が発生することを同一視しないことです。法的責任は、契約、不競法、不法行為、会社法等の具体的な要件を満たすかで判断されます。逆に、退職者側も、「営業秘密は持ち出していない」「頭の中の記憶だけ」であれば常に自由というわけではありません。有効な競業避止特約等があれば、情報の持ち出しがなくても義務違反となる場合があります。
実務における「重心」
この対立構造を前提にすると、会社にとって実効性の高い戦略は、第一に、保護したい利益を特定し、必要に応じて営業秘密として管理すること(第Ⅳ部)、第二に、競業避止特約を職業選択の自由との均衡が取れた範囲に絞って設計すること(第Ⅱ部)、第三に、退職者の行為の態様を証拠で押さえること(第22講)です。「退職者を広く縛る」のではなく、「自社の利益を法的に保護されやすい形に整える」ことが基本になります。
実務ポイント
・退職者が経験・技能・人脈を活かして働くことは原則自由。会社側は、営業秘密・契約上の義務・社会的相当性を逸脱した行為等、具体的な法的根拠を検討する。
・「不誠実」と「違法」は違う。道義的非難で裁判は勝てない。
・天秤を傾けるのは、保護したい利益の特定と、それを法的に保護される形にしておく事前の設計。
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