第106講 クラウド電子カルテの契約書― データを取り戻せるか
第Ⅺ部 個人情報・IT・サイバー・生成AI
クラウド型電子カルテは、院内にサーバーを置く負担を減らし、更新や保守を事業者に任せられるサービスです。ただし、製品や契約によって役割分担は異なります。導入時の使いやすさと同じくらい大切なのが、解約後も過去の記録を読めること、必要なデータを次のシステムへ移せることです。
この講では、クラウド電子カルテの契約書を「必要な記録を取り戻し、使い続けられるか」という視点で読みます。医師法24条の診療録の記載義務を負うのは医師です。勤務医の診療録は病院・診療所の管理者が、それ以外は医師本人が5年間保存します。外部サービスを使っても、この義務はなくなりません。事業者にも、契約と法令に応じた責任があります。
例えば、クラウド型電子カルテを使い始めて3年。院長は別の製品への乗換えを考え、ベンダーにデータの出力方法を尋ねました。「PDFのみで、1患者ずつの操作が必要です。解約後はシステムにアクセスできません」。患者は8,000人。必要な記録をすべて出力できるのか、処方歴や検査結果を次のシステムで使えるのか。院長は、解約前に確かめることが多いと気づきました。
1 前提 ― 誰が何の義務を負っているか
| 主体 | 義務・地位 |
|---|---|
| 医療機関 | 診療録は医師が遅滞なく記載し、勤務医のものは管理者が、それ以外は医師が5年間保存する。電子保存では真正性・見読性・保存性を確保する。個人情報の安全管理と、取扱いを委託する場合の委託先監督も必要。記録の種類によって保存義務・期間は異なる。 |
| ベンダー | 契約上の義務に加え、実際の取扱いに応じた個人情報保護法等の義務を負う。個人データを取り扱う委託と、契約・アクセス制御により取り扱わないクラウド利用は区別する。後者でも医療機関の安全管理は必要。医師法24条の保存義務を当然に引き受けるわけではない。 |
| 患者 | 保有個人データの開示を医療機関に請求できる。法定の不開示事由等はあるが、外部に保存していることだけを理由に開示を拒めるわけではない。 |
この構造から、二つのことが導かれます。第一に、ベンダーのサービスが終了しても、ベンダーが倒産しても、医療機関の保存義務は消えない。第二に、患者の開示請求に応じられない状態は、医療機関の義務履行の問題となる。原因によってはベンダーも契約責任・不法行為責任を負い得る。契約書は、この二つを医療機関が果たせる形になっていなければなりません。
2 契約書の確認項目
データの帰属
データは、民法上の所有権という言葉だけでは権利関係を整理できません。医療機関が閲覧・出力・移行できる範囲、事業者が利用できる目的、終了時の返還・消去を具体的に定めます。患者情報の取扱いと、ソフトウェアの知的財産権は別の問題です。「データは当社に帰属する」という曖昧な一文で、移行や開示への対応が妨げられないかを確認します。
終了時のデータ返還
最も重要な項目です。次の点を具体的に確認します。
- 形式 保存用の閲覧形式と、次のシステムへ移すための形式を分けて確認する。PDFでも必要な記録の完全性、検索・閲覧、保存等を確保できる場合はあるが、構造化されたデータの移行とは異なる。CSV等も項目の意味や対応表がなければ十分とはいえない。一括出力と試験移行を確認する。
- 範囲 診療録、処方、検査、画像、紹介状・同意書等を患者・診療日時と正しく結び付けて取り出せるか。確定者、確定日時、変更履歴等も含め、移行後の真正性を説明するために必要な情報と、その保管方法を決める。
- 期間 解約通知から返還までの期限。解約後もデータを出力できる猶予期間があるか。
- 費用 返還が有償か。有償なら金額の定め。「別途協議」は、解約時に高額を提示される余地を残す。
- 消去 受領したデータの完全性と閲覧・復元を確かめてから消去へ進む。複製やバックアップを含む消去の範囲・期限・証明方法を定め、法令上の保存等で残る情報は、理由、期間、アクセス制限を明確にする。
- 閲覧の継続 移行できない記録の閲覧契約、費用、必要な保存期間を確認する。すべての記録を「解約から5年」で処理せず、記録ごとの保存期間や紛争対応等を考慮する。閲覧サービス自体が終了した場合の代替手段も必要。
ベンダーの側の事情による終了
サービス終了、事業譲渡、倒産を分けて定めます。通常の終了には、移行できる予告期間と終了前の出力を求めます。例えば6か月〜1年を交渉の目安にする方法がありますが、法定の一律最低期間ではありません。事業譲渡では、契約承継の条件と、承継を望まない場合の解約・返還を確認します。倒産時は契約条項だけで継続を保証できないため、日頃から別の安全な場所へ必要なデータを取り出せることが重要です。第三者へのデータ・ソースコードの預託も、取り出す条件、稼働に必要な環境、費用まで定めなければ十分ではありません。
保存場所
安全管理ガイドラインは、外部保存について、保存情報や機器等に国内法の適用・執行が及ぶことを求めています。国内企業との契約というだけでは足りません。保存・処理の場所、再委託先、外国法による開示等の影響を確認します。外国の事業者へ個人データを提供する場合は、個人情報保護法28条の条件も別に検討します。海外サーバーの利用と、外国にある第三者への提供は同じ意味ではありません。
サービス水準と免責
稼働率の目標、障害連絡、復旧までの目標時間と、どの時点のデータまで戻すかを確認します(第104講)。免責・賠償上限も、障害の原因や義務との関係で読みます。故意・重過失、合意したバックアップ義務の不履行等を制限の例外にする交渉が考えられます。条項の効力は個別に判断されるため、「書いてあるから常に免責」「上限はすべて無効」とは考えません。
バックアップ
取得頻度、本番環境からの分離、複数世代、復元試験を確認します(第105講)。医療機関が自ら安全に出力・保管できる機能も重要です。ただし、出力できるだけで移行が完成するわけではありません。画像等の別データ、対応表、復元手順、費用も確かめます。
再委託
個人データの取扱いを再委託する場合は、再委託先、業務、安全管理、変更時の手続を把握し、委託先を通じた監督等を行います。データセンター等が実際には個人データを取り扱わない場合もあるため、名称だけで判断しません。外部サービス全体の安全性や事故連絡の確認は別に必要です。
二次利用
ベンダーによる二次利用は、委託業務の遂行とベンダー自身の目的での利用を区別します。匿名加工情報として提供するなら法定の加工・公表・提供時の要件等を満たす必要があります。仮名加工情報は原則として第三者提供が禁止され、単に加工方法を契約書に記載すれば外部利用を許せるものではありません。
契約期間・更新・値上げ
自動更新の有無、解約予告期限、途中解約の費用を確認します。期限を過ぎると次の契約期間の料金が発生する条件もあります。値上げの事前通知、同意しない場合の解約、データ出力の条件も合わせて読みます。
監査・報告
セキュリティ事故が発生した場合のベンダーから医療機関への報告義務(内容・期限)。医療機関が個人情報保護委員会に速報を出すには、ベンダーからの迅速な報告が不可欠です。第三者認証の有無と、更新状況の報告。
3 移行を前提にした運用
契約書の修正が難しい場合でも、運用でリスクを下げられます。
いつでも移行できる状態を保つ
- 定期的な出力と復元確認 移行に備えた出力の頻度と、障害時に失ってよいデータの範囲に応じたバックアップ頻度を分けて決める。月1回で十分とは限らない。複製にも暗号化・アクセス制御等を行い、内容の完全性と復元を確かめる。
- 文書・画像の保管 電子カルテの外で保管する場合も、患者との対応関係、保管責任、アクセス権、保存・消去のルールを決める。管理されない複製を増やさない。
- 移行の試算 乗換え先の候補に、現行システムからのデータ移行の可否と費用を、契約前に確認しておく。
- 解約予告期間の管理 更新日と解約予告期限を、事務のカレンダーに入れる。
- 導入時の確認 この講の第2章の項目を書面で質問し、合意を契約・仕様書等に反映する。できない機能は代替策と残るリスクを評価し、保存等の義務を果たせないなら採用を見送る。
4 冒頭の事案 ― どう対応するか
まず解約前に、契約上の出力条件、出力対象、所要時間、費用を確認します。一括出力の義務が合意されていれば履行を求め、定めが曖昧なら、必要な保存・移行の条件を示して協議します。法律だけで任意の形式への無償変換が当然に認められるわけではありません。乗換え先と試験移行を行い、移せない記録は旧システムの閲覧契約や適切なPDF保存等で補います。必要な記録が読めることを確かめる前に、旧データを消去したり閲覧を終了したりしないでください。
導入時に出口の条件を確かめ、乗換え時には保存・移行の方法を決めてから解約手続へ進みます。先に解約だけを確定させないことが、診療を途切れさせず記録を守るために重要です。
5 今日やること・やってはいけないこと
今日やること
- 現行の電子カルテ契約書を取り出し、「データの帰属」「終了時の返還」「免責」「自動更新」の条項を読む
- 一括出力の範囲・形式を確認し、必要な頻度でのバックアップと復元試験を計画する
- ベンダーのサービス終了・倒産時のデータの扱いが書かれていなければ、覚書での追加を求める
- 解約予告期限をカレンダーに入れる
やってはいけないこと
- 契約書を読まずに解約を伝える
- 「クラウドだから安全」と考えて、バックアップ・復元・契約終了時の方法を確認しない
- データの利用・出力・返還の権限が不明確な条項を、そのまま受け入れる
- 二次利用の条項を確認せずに、患者データがベンダーの営業に使われる状態を放置する
6 よくある質問
- ベンダーが倒産しました。データを取り戻せますか。
- 倒産の手続と窓口を確認し、管財人等に契約に基づく出力・返還とデータ保全を速やかに求めます。サービスの継続や返還の方法・費用は、契約、倒産手続、保存先との関係、技術的な条件に左右されます。「自院のデータだから所有権で必ず取り戻せる」とは限りません。第三者のサーバーへ独断でアクセスせず、弁護士と移行先の事業者を交えて、安全な受渡しを進めてください。
- 汎用形式で出力しても、乗換え先のシステムで読めないと言われました。
- 電子カルテのデータは製品ごとに構造が異なり、完全な移行は困難なことが多い。実務上は、患者基本情報・処方歴・病名・検査結果など主要な項目を移行し、過去の診療録本文は文書として取り込むか、旧システムの閲覧プランで参照する、という組合せになります。移行の範囲と費用を、乗換え先と旧ベンダーの双方に契約前に確認してください。
- 電子カルテの契約は、医療機関が個別に交渉できるものですか。
- 標準約款の変更に応じない事業者もあります。質問への回答や仕様書で補えるかを確認し、重要な合意は契約との関係を明確にして残します。追加契約ができる保証はありません。運用で補えない保存・安全管理上の問題が残るなら、他のサービスも比較してください。
主な法令・参考資料
- 医療法施行規則
医療情報システムのサイバーセキュリティ確保等(14条2項)。
https://laws.e-gov.go.jp/law/323M40000100050
- 医師法
診療録の記載・保存(24条)等。
https://laws.e-gov.go.jp/law/323AC0000000201
- 民法
委任・善管注意義務、契約上の責任、不法行為、使用者責任等。
https://laws.e-gov.go.jp/law/129AC0000000089
- 個人情報保護法
利用目的、要配慮個人情報、委託・第三者提供、保有個人データの開示等。
https://laws.e-gov.go.jp/law/415AC0000000057
- 個人情報保護委員会:ガイドライン(通則編)
漏えい等の報告対象、速報・確報、安全管理、第三者提供。
https://www.ppc.go.jp/personalinfo/legal/guidelines_tsusoku/
- 厚生労働省:医療情報システム安全管理ガイドライン第7.0版
2026年6月改訂の第7.0版。
https://www.mhlw.go.jp/stf/shingi/0000516275_00006.html
- 同ガイドライン:システム運用編
電子保存、システム運用、認証、バックアップと復旧等。
https://www.mhlw.go.jp/content/10808000/001716295.pdf
- 個人情報保護委員会・厚生労働省:医療・介護ガイダンス
令和8年4月一部改正。医療情報の取得・利用・提供、安全管理、開示等。
https://www.ppc.go.jp/personalinfo/legal/iryoukaigo_guidance/ - 厚生労働省:安全管理ガイドライン第7.0版・企画管理編
非常時対応、役割分担、BCP、事業者との契約・管理等。
https://www.mhlw.go.jp/content/10808000/001716292.pdf - 個人情報保護委員会:Q&A7-53(クラウドサービス)
個人データを取り扱わない契約・アクセス制御と、第三者提供・委託の判断。
https://www.ppc.go.jp/all_faq_index/faq1-q7-53/ - 個人情報保護委員会:外国にある第三者への提供編
法28条の同意、指定国、相当措置を継続する体制等。
https://www.ppc.go.jp/personalinfo/legal/guidelines_offshore/