立退料の法的性質 ― 誤解されがちな出発点
意外に思われるかもしれませんが、借主が貸主に対して「立退料を支払え」と請求できる独立した請求権は、法律上存在しません。立退料は、借地借家法28条5号の「財産上の給付」の申出として、貸主の側が正当事由を補完するために提供するものです。
この構造から、実務上決定的に重要な帰結が導かれます。
第一に、正当事由の核心(使用の必要性等)を欠く貸主は、立退料をいくら積んでも明渡しを実現できないのが原則です。裏を返せば、借主側が「正当事由なし」の主張を維持できる限り、交渉の主導権は借主側にあります。
第二に、立退料は判決で「引換給付」の形をとるのが通常です。裁判所が正当事由を認める場合、「被告は、原告から○○円の支払を受けるのと引換えに、建物を明け渡せ」という判決になります。金銭の受領と明渡しが同時履行の関係に立つため、「先に出たのに払われない」という事態は判決上は避けられる設計です。
重要判例 ― 立退料の申出・増額は「あとから」でも考慮される(最判平成3年3月22日)
立退料に関する最重要判例が、最高裁平成3年3月22日判決(平成2年(オ)第216号・第二小法廷)です。最高裁は、建物の賃貸人が解約申入れの後に立退料等の提供を申し出た場合や、当初申し出ていた金額の増額を申し出た場合でも、その提供・増額に係る金員を参酌して、当初の解約申入れの正当事由を判断することができる、と判示しました。
この判例の実務的な意味は大きく、貸主側は訴訟の進行を見ながら(事実審の口頭弁論終結に至るまで)立退料の提示額を引き上げて正当事由を「積み増す」ことができます。つまり立ち退き紛争は、最後の最後まで金額が動き続けるゲームなのです。初回提示額は文字どおり「初回の」提示にすぎません。当事務所の経験では、適切な主張立証を尽くした事案において、初回提示額と最終解決額が数倍〜十数倍異なることは決して珍しくありません。
「相場」という言葉に注意
インターネット上には「立退料の相場は家賃の6か月〜12か月分」といった情報があふれています。住居の簡易な事案の目安として一面の真実を含みますが、法律上そのような基準はどこにも存在せず、事案の個性――借主の使用の必要性、営業の内容、正当事由の強弱――によって、ゼロから数千万円、事業用では億円単位まで変動します。「相場だから」という貸主側の説明を鵜呑みにする必要はまったくありません。金額がどう組み立てられるのか、次講から具体的に見ていきます。