第8講第Ⅱ部 金額編――立退料はいくらが適正か
裁判所は、実際にいくらと言ったか――正当事由と立退料の裁判例を読む
137件の統計と、否定・肯定・棄却の実例から「思考の型」を取り出す
この講の結論
立退料の裁判例は事案の個性への依存度が極めて高く、「この判決でいくらだったからうちもいくら」という使い方はできません。それでも裁判例を知る意味は、裁判所がどの事情をどう評価するかという「思考の型」を学べることと、交渉で根拠のある反論材料になることにあります。法務省が令和7年に公表した調査研究報告書によれば、令和元年5月から令和6年3月までの裁判例137件のうち正当事由が認められたのは約半数で、認められた事案の大半は立退料の支払いと引換えでした。裁判所は「築年数が古い」という一事では動かず、耐震診断などの客観資料、補強工事の技術的・経済的な可能性、明渡し後の計画の具体性、そして提示された立退料が十分かどうかを、順を追って検討しています。建替えの必要性が認められる事案でも、貸主の提示額が裁判所の考える相当額に遠く及ばなければ、請求そのものが棄却されます。
裁判例を読むときの三つの注意
最初にお断りしておきます。立退料に関する裁判例は、建物の構造と築年数、耐震診断の結果、貸主の計画の中身、借主の業種と営業年数、賃料の水準、地域の地価と借家権の取引慣行、双方の主張立証の厚みといった、無数の変数の組合せで結論が決まります。同じ「築50年の木造店舗」でも、認定額は数百万円から数千万円まで動きます。
第一の注意は、金額を「当てはめ」に使わないことです。第二の注意は、公表されている裁判例には偏りがあることです。判決まで至った事案だけが公表され、和解で終わった事案は表に出ません。実務では和解による解決のほうが多く(第16講)、その水準は判決の水準と必ずしも一致しません。第三の注意は、下級審の判断は、上級審で覆されることも、同種の事案で別の裁判官が異なる判断をすることもあるということです。
それでも裁判例を読む意味は二つあります。一つは、裁判所がどの事情をどう評価するかの「思考の型」を学べること。もう一つは、交渉で「裁判になればこうなる」という根拠のある見通しを相手に示せることです。この講では、その二つの目的に沿って裁判例を並べます。
数字で見る全体像――137件が語ること
法務省が外部機関に委託し、令和7年3月にまとめて同年10月に公表した「借地借家法の更新拒絶等要件に関する調査研究報告書」は、令和元年5月から令和6年3月までの間に正当事由の判断が行われた建物賃貸借の裁判例137件を分析した、現時点で最も網羅的な公的資料です。第1講でも触れましたが、裁判例を読む前提として、主な数字を確認しておきます。
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| 項目 | 数値 | 借主側の読み方 |
|---|---|---|
| 正当事由が認められ明渡しが認められた件数 | 73件/137件(約53.3%) | 半数近くの事案で貸主の請求は退けられている |
| 明渡しが認められた73件のうち居住用(併用を含む) | 26件(約35.6%) | 明渡しが認められた事案の多くは事業用 |
| 建替え・取壊しの必要を貸主が主張した事案 | 87件(約63.5%) | いまの紛争の主流は建替え型 |
| うち老朽化を理由とするもの/そのうち正当事由肯定 | 76件/54件(約71.1%) | 老朽化型は貸主側に傾くが、約3割は否定されている |
| 老朽化を理由に正当事由が肯定された54件のうち、耐震性に言及した裁判例 | 47件(約87.0%) | 老朽化型で貸主の主張が通った事案の大半は耐震性の資料を伴う。平成16年の前回報告書には耐震性への言及がなかった |
| 立退料の申出がなかったと窺われる裁判例 | 10件程度 | ほぼすべての事案が立退料の申出を伴って争われている |
| 認定された立退料の幅 | 27万円(賃料6か月分)〜8億3000万円 | 「相場」と呼べる幅ではない |
報告書は、正当事由制度は「適切に運用されている」と評価し、立退料については立退料の目安や算定基準・方法等を示すことには「そもそもなじまない」としています。裁判所が個別の事情を丁寧に見ているということであり、それは借主側にとって、事情と資料を出せば出すほど結論が動く制度だということでもあります。
正当事由が否定された裁判例
貸主の請求が退けられた事案には、共通する型があります。建物が現に使用できること、補強や修繕が現実的であること、貸主の計画が抽象的であること、そして提示された立退料が不足していることです。
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| 裁判例 | 事案 | 否定の理由 |
|---|---|---|
| 東京高判平成24年12月12日 | 築40年の賃貸戸建て。耐震診断の上部構造評点は0.96で「倒壊の可能性あり」の区分。借主は約19年居住 | 居住に格別の支障はなく、大規模な修繕をしなければ居住できない状態ではない。評点0.96は1.0に近く、耐力壁の補強で改善できる。貸主側には処分したほうが利益になるという以上の差し迫った事情がない。賃料約2年分の立退料の提供があっても正当事由なし |
| 東京地判平成25年12月24日 | 建物の危険性を理由とする明渡請求 | 危険性を主張しながら、明渡し後の建替え計画がない |
| 東京地判令和3年3月12日 | 築37年の建物のバー。賃料月65万円 | 修繕が可能であり、貸主の計画の具体性が乏しい |
| 東京地判令和4年10月14日 | 築古ビル1階の約12㎡の洋服・雑貨店。約40年営業。貸主は耐震性不足を理由に建替えを主張し、立退料100万円、のち300万円までの範囲を申出 | 建替えの必要性は認めつつ、相当な立退料は900万円を下回らないと判断。申出の上限300万円は必要額の3分の1以下で、正当事由を補完する財産上の給付があるとはいえないとして請求を全部棄却 |
| 東京地判令和4年11月28日 | タクシーの洗車場として使用される築20年程度の建物。賃料月26万5000円 | 顕著な老朽化はなく、借主にとって立地が重要 |
| 東京地判令和5年2月22日 | 築100年を超える木造建物。借主は86歳で80年以上居住 | 令和7年報告書が、立退料による補完を許さないほど高度な使用の必要性が借主側に認められた例として挙げる事案 |
東京高判平成24年12月12日は、耐震診断で「倒壊の可能性あり」とされた建物であっても、その数値の中身(1.0に近い0.96)と補強の容易さを見て正当事由を否定した点で、老朽化型の事案の借主にとって重要な裁判例です。「診断書がある」ことと「建替えが必要である」ことは別だと裁判所が言っているのです。東京地判令和5年2月22日は、事案の極端さゆえに一般化はできませんが、立退料で埋められない領域が存在することを示しています。
正当事由が肯定され、立退料と引換えになった裁判例
いまの立ち退き紛争の多数を占めるのが、この類型です。裁判所は建替えの必要性を認めつつ、借主の損失を立退料で補完し、その支払と引換えに明渡しを命じます。金額の実例は第6講(住居)と第7講(店舗)で詳しく扱いましたので、ここでは算定の「組み立て方」が明示された事案を中心に挙げます。
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| 裁判例 | 事案 | 立退料 | 組み立て |
|---|---|---|---|
| 東京地判平成28年5月12日 | 昭和39年建築の駅前商業ビル。老朽化と耐震性不足を理由に等価交換方式で建て替える計画。テナントは店舗 | 1億3313万円 | 内装費約2010万円、家賃差額約4277万円、営業補償約1557万円、借家権価格5290万円、移転雑費約486万円の五要素の合計約1億3621万円に約9割を乗じ、保証金返還約1054万円を加算。テナント側の「発祥の地」という主観的な事情は重視されなかった |
| 東京地判平成28年12月22日 | 築43年の木造アパート(住居)。賃料月9万円 | 350万円 | 移転実費約20万円、賃料差額2年分約302万8800円、雨漏りの迷惑料20万円。借家権価格方式は採用せず |
| 東京地判令和3年3月26日 | 旧耐震基準の建物(住居)。賃料月16万円。借主の家族に障害 | 285万円 | 賃料差額月10万円×24か月と移転費用45万円 |
| 東京地判令和4年8月3日 | 築70年以上の木造建物の飲食店。賃料月30万円 | 2037万5000円 | 借家権価格の3分の2である800万円に、損失補償1037万5000円と営業補償の2分の1である200万円を加算 |
| 東京地判令和4年10月28日 | 築58年以上の建物の居酒屋。賃料月20万2000円 | 3058万円 | 借家権価格939万円ではなく損失補償基準による2550万円を採用し、併合による増分価値508万円を加算 |
| 東京地判令和5年7月13日 | 令和7年報告書が分析対象137件の最高額として挙げる事案 | 8億3000万円 | 借家権価格、移転費用等、営業補償の合計額 |
組み立て方を並べると、住居では移転実費と賃料差額、店舗では損失補償基準に沿った項目の積み上げが基本にあり、借家権価格を採るかどうか、採るとしてどの割合で採るかが事案ごとに分かれていることが分かります。第5講で見た四つの算定パターンのうち、金額が大きい事案ほど「各要素の合計」型で根拠が示される傾向は、この表でも確認できます。
立退料なしで明渡しが認められた例外的な事案
令和7年報告書によれば、立退料の申出がなかったと窺われる裁判例は137件中10件程度にとどまります。立退料なしで明渡しが認められる事案は例外的ですが、存在します。東京地判立川支部平成25年3月28日は、11階建て204戸の集合住宅で、全階のIs値が0.6未満、一部は0.3未満という耐震診断の結果があり、所有者である都市再生機構が197戸との合意を済ませ、補強工事が現実的でなく、手厚い住み替え措置が用意されていた事案で、立退料なしの明渡しを認めました(仮執行宣言付き)。東京地判平成25年1月23日は、借主による建物使用の必要性が極めて低い事案で、立退料なしの明渡しを認めています。
これらは、建物の危険性が客観的に極めて高く、かつ借主側の使用の必要性が乏しいか、または住み替えの手当てが別途尽くされている、という特殊な事情が重なった事案です。通常の民間の立ち退きで「危険だから立退料なしで出ろ」という主張がそのまま通ることは、裁判例の実態からは考えにくいといえます。
「提示額が低すぎる」だけで請求が棄却される
借主側にとって特に知っておくべき裁判例が、前掲の東京地判令和4年10月14日です。この事案では、裁判所は建替えの必要性、つまり貸主側の使用の必要性を認めています。それでも請求は全部棄却されました。理由は、貸主が申し出た立退料の上限(300万円)が、裁判所の考える相当額(900万円を下回らない)の3分の1以下にとどまり、正当事由を補完する財産上の給付があるとはいえない、というものでした。
この判決が示しているのは、立退料の額を争うことは、正当事由そのものを争うことでもあるということです。第4講で見たとおり、裁判所は貸主の申出額を超える立退料を認定できますが、それは貸主が「裁判所が相当と認める額」という含みを持たせて申し出ている場合の話です。貸主が上限を切って申し出ている場合、その上限が相当額に遠く及ばなければ、裁判所は「その額では正当事由は補完されない」として請求を棄却します。貸主側にとっては、低い提示にこだわることが敗訴のリスクになるということであり、借主側にとっては、相当額の主張立証を尽くすことが、金額を上げるだけでなく請求棄却をも導き得るということです。
一つの判決に現れた四つの算定方式
東京地判令和4年10月14日は、相当な立退料の額を検討する過程で、四つの算定方式による金額を並べています。立退料の算定方法が一つに定まっていないことと、それぞれの方式がどのような数字を導くかを、一つの事案で見ることができる貴重な例です。
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| 方式 | 考え方 | この事案での算定額 |
|---|---|---|
| 控除方式 | 自用の建物及びその敷地の価格から、貸家及びその敷地の価格を控除して借家権価格を求める(不動産鑑定評価基準の控除法) | 1420万円 |
| 借家権割合方式 | 更地価格に借地権割合と借家権割合を乗じるなどして借家権価格を求める | 1050万円 |
| 賃料差額方式 | 新規に借りる場合の賃料と現在の賃料の差額の一定期間分を積み上げる | 731万円 |
| 損失補償方式 | 公共用地の取得に伴う損失補償基準に沿って、移転費用・営業補償などを積み上げる | 499万円 |
| 裁判所の判断 | 四方式の単純平均925万円、調停での借家権価格の査定927万円、借主が年間平均33万円余の営業利益で生計を立てていることを総合考慮 | 900万円を下回らない |
四つの方式で最大と最小に約3倍の差があることに注目してください。どの方式を採るかで金額が大きく動くのが立退料の算定であり、だからこそ、借主側は複数の方式で自分の数字を用意し、事案に合う方式を主張する必要があります。この事案では、営業利益が小さい店舗であるため損失補償方式の数字は小さく出ていますが、借家権価格に着目した方式では1000万円を超えています。第7講で見た「利益が小さい事業でも他の項目は別に立つ」という指摘の、裁判例における現れです。
裁判所の思考の型――検討の順序
否定例と肯定例と棄却例を並べると、裁判所が老朽化型の事案でたどっている検討の順序が見えてきます。
図1 老朽化・建替え型事案における裁判所の検討の順序
- 1建物の現況を客観資料で確認する耐震診断の結果(Is値、上部構造評点)、建築士の意見書、劣化状況の調査。「古い」という一事では動かない。資料がない、または数値が基準値に近い事案は、この段階で貸主側に不利に働く(東京高判平成24年12月12日)。
- 2補強・修繕の技術的・経済的な可能性を検討する補強工事で対応できるか。その費用は建物の価値や賃料収入と比べて合理的か。補強後の建物の使用価値は保たれるか。合理的な補強が可能なら建替えの必要性は弱まる。補強しても使用価値が大きく落ちるなら建替えの必要性が認められやすい。
- 3明渡し後の計画の具体性を見る建替え後の用途、設計、資金、時期。危険性を言いながら計画がない事案は否定される(東京地判平成25年12月24日)。計画が具体的で実現可能性が高いほど正当事由は強まる方向に働く。
- 4借主側の使用の必要性と比較する居住・営業の本拠性、年数、年齢、立地依存性、移転の困難。金銭で埋められる困難は立退料の額に反映され、埋められない困難は正当事由の否定に向かう(東京地判令和5年2月22日)。
- 5提示された立退料が補完に足りるかを判断する複数の算定方式で相当額を検討し、申出額と比較する。申出額が相当額に遠く及ばなければ、建替えの必要性があっても請求は棄却される(東京地判令和4年10月14日)。足りていれば、相当額の支払と引換えに明渡しを命じる。
借主側の反論は、この五つの段階のそれぞれに対応して組み立てる。
この順序は、借主側の反論の設計図そのものです。第1段階では耐震診断書の開示を求めてその中身を専門家と読む。第2段階では補強の可能性について建築士の意見を得る。第3段階では計画の具体性を問い、主張の変遷を記録する。第4段階では自分の必要性を資料で語る。第5段階では複数の方式で相当額を積み上げる。どの段階で勝負するかは事案によって違いますが、五つの段階のどこにも手を打たないまま「出たくない」と言うだけでは、裁判所は動きません。老朽化型の事案の具体的な攻防は、第9講で扱います。
裁判例を交渉でどう使うか
裁判例は、訴訟で引用するだけのものではありません。交渉の段階で、相手の提示に対して「同種の事案で裁判所はこう判断している」と示すことが、提示額を動かす最も現実的な手段の一つです。貸主側、特に事業者は、訴訟になった場合の見通しを社内で説明できなければ増額の決定ができません。借主側が裁判例を根拠に相当額を示すことは、相手の社内稟議の材料を提供することでもあります(第19講)。
使い方には順序があります。まず、自分の事案と近い変数(建物の構造と築年数、用途、賃料水準、地域、貸主の理由)を持つ裁判例を選びます。次に、その裁判例で裁判所が採った算定の組み立てを、自分の事案の数字に置き換えます。最後に、自分の事案のほうが借主側に有利な事情(より長い営業年数、より強い立地依存性、より弱い貸主の必要性)があれば、その差を指摘します。金額だけを引用するのではなく、組み立てと事情の対比で使うのが、裁判例の正しい使い方です。
なお、裁判例の網羅的な調査と分析は、事案が具体化した段階で判例データベースを用いて行います。この講で挙げた裁判例は公表されているものの一部にすぎません。ご自身の事案に近い裁判例がどの程度の水準を示しているかは、初回相談時にお尋ねください。
PRACTICE NOTE
自分の事案を裁判例に当てる五つの問い
表は横にスクロールできます。
| 問い | 確認すること | 対応する裁判例の類型 |
|---|---|---|
| ①建物の危険性は数値で示されているか | 耐震診断書の有無、Is値や上部構造評点の数値、基準値との距離 | 数値が基準に近い→東京高判平成24年12月12日型。数値が極端に低く住み替え措置もある→立川支部平成25年3月28日型 |
| ②補強は現実的か | 建築士の意見、補強費用と建物価値・賃料収入の比較 | 補強可能→否定例。補強しても使用価値が落ちる→肯定例 |
| ③貸主の計画は具体的か | 用途、設計、資金、時期、他のテナントとの交渉状況 | 計画なし→東京地判平成25年12月24日型。等価交換など具体的→東京地判平成28年5月12日型 |
| ④自分の必要性は金銭で埋まるか | 居住・営業の年数、年齢、立地依存性、移転の困難の性質 | 埋まる→立退料の額の争い。埋まらない→東京地判令和5年2月22日型 |
| ⑤提示額は相当額に届いているか | 複数の算定方式で自分の数字を置き、提示額と比較する | 大きく不足→東京地判令和4年10月14日型(請求棄却の可能性) |
五つの問いに答えていくと、自分の事案が第3講の領域A・B・Cのどこにあるかが、裁判例の裏付けをもって見えてきます。
実務チェック
- 裁判例の金額を「当てはめ」ではなく「組み立て方」と「事情の対比」で読んでいる。
- 貸主側に耐震診断書・建築士意見書・建替え計画の開示を求め、その中身を確認した。
- 否定例(東京高判平成24年12月12日など)と自分の事案の共通点・相違点を書き出した。
- 複数の算定方式で自分の事案の相当額を検討し、提示額と比較した。
- 提示額が相当額に遠く及ばない場合、東京地判令和4年10月14日の枠組みで請求棄却の可能性も含めて方針を検討した。
- 自分の事案に近い裁判例の調査を、専門家に依頼する準備をした。
よくある質問
裁判になったら、結局は出て行くことになるのですか。
法務省の令和7年調査研究報告書によれば、正当事由の判断が行われた裁判例137件のうち、明渡しが認められたのは約半数です。老朽化を理由とする事案では約7割で正当事由が肯定されていますが、その大半は立退料の支払いと引換えであり、建替えの必要性が認められても提示額が不足していれば請求が棄却された例もあります。「出て行くかどうか」と「どういう条件で出るか」の両方が、裁判所で争われているのが実態です。
耐震診断で「倒壊の可能性あり」と言われたら、もう争えませんか。
争えます。東京高判平成24年12月12日は、上部構造評点0.96で「倒壊の可能性あり」の区分に当たる戸建てについて、その数値が1.0に近く耐力壁の補強で改善できることなどから正当事由を否定しました。診断結果の区分名だけでなく、数値の中身と補強の可能性を見るのが裁判所の姿勢です。診断書の開示を求め、建築士とともに内容を検討してください(第9講)。
「判例では賃料の10か月分」と貸主から言われました。
賃料の月数で立退料を認定した裁判例は確かにありますが、それは比較的低額の住居事案などに見られる算定の一つの型にすぎません。令和7年報告書が分析した137件の認定額は27万円から8億3000万円まで幅があり、報告書自身が基準や目安を示すことにはなじまないとしています。相手が引く裁判例が、建物の用途、賃料水準、営業年数、貸主の理由の点でご自身の事案と似ているかを確かめてください。似ていなければ、その月数には意味がありません。
裁判例の金額は、和解の金額と同じですか。
同じではありません。公表される裁判例は判決まで至った事案であり、実務では和解で終わる事案のほうが多いのが実情です(第16講)。和解では、判決の不確実性を双方が避ける代わりに、金額だけでなく明渡時期の猶予や原状回復義務の免除といった条件を組み合わせますので、金額だけを裁判例と比較することはできません。裁判例は、和解の水準を見立てるための一つの座標として使います。
自分の事案に近い裁判例を、自分で探せますか。
裁判所ウェブサイトの裁判例検索で一部の裁判例を読むことはできますが、立退料に関する下級審裁判例の多くは商用の判例データベースや判例集にしか掲載されていません。また、裁判例を「似ている」と判断するには、建物の状況、貸主の理由、借主の事情、算定の組み立てを対比する必要があり、金額だけを見て選ぶと誤った見通しを持つことになります。事案が具体化した段階で、専門家に調査を依頼するのが確実です。
この講の主な根拠条文・裁判例・資料
- 借地借家法〔e-Gov法令検索〕28条(建物賃貸借契約の更新拒絶等の要件)
- 法務省「借地借家法の更新拒絶等要件に関する調査研究報告書」(令和7年3月、公益社団法人商事法務研究会、令和7年10月公表)令和元年5月〜令和6年3月の裁判例137件の分析。正当事由肯定73件(約53.3%)、建替え・取壊し主張87件、老朽化理由76件(うち肯定54件、約71.1%)、老朽化肯定54件のうち耐震性言及47件(約87.0%)、立退料の申出がなかったと窺われる裁判例10件程度、認定額27万円〜8億3000万円
- 東京高判平成24年12月12日築40年の戸建てについて、上部構造評点0.96は1.0に近く補強で改善でき、貸主側に差し迫った事情がないとして、賃料約2年分の立退料の提供があっても正当事由を否定した裁判例
- 東京地判平成25年1月23日借主の使用の必要性が極めて低い事案で、立退料なしの明渡しを認めた裁判例
- 東京地判立川支部平成25年3月28日全階のIs値が0.6未満の11階建て集合住宅について、補強が現実的でなく手厚い住み替え措置が用意されていた事案で、立退料なしの明渡しを認めた裁判例
- 東京地判平成25年12月24日危険性を主張しながら建替計画がない事案で明渡しを認めなかった裁判例
- 東京地判平成28年5月12日駅前商業ビルの建替えについて、内装費・家賃差額・営業補償・借家権価格・移転雑費の五要素を積み上げて立退料1億3313万円を認定した裁判例
- 東京地判平成28年12月22日、東京地判令和3年3月26日居住用建物について移転実費と賃料差額2年分を中心に立退料を認定した裁判例(第6講参照)
- 東京地判令和3年3月12日、東京地判令和4年11月28日修繕可能で計画の具体性が乏しい、または顕著な老朽化がないとして正当事由を否定した裁判例(第7講参照)
- 東京地判令和4年8月3日、東京地判令和4年10月28日店舗について借家権価格と損失補償基準を組み合わせて立退料を認定した裁判例(第7講参照)
- 東京地判令和4年10月14日建替えの必要性を認めつつ、四つの算定方式(控除方式1420万円、借家権割合方式1050万円、賃料差額方式731万円、損失補償方式499万円)等を踏まえ相当な立退料は900万円を下回らないとし、貸主の申出上限300万円では正当事由が補完されないとして請求を全部棄却した裁判例
- 東京地判令和5年2月22日、東京地判令和5年7月13日令和7年報告書が、それぞれ立退料による補完を許さない高度の必要性の例、認定額の最高額の例として挙げる裁判例
条文のリンクは法令本文へ移動します。裁判例の原文は、裁判所ウェブサイトの裁判例検索や判例集で裁判年月日から確認できます。本講の記載は執筆時点の法令・裁判例・資料に基づく一般的な情報提供であり、個別の事案に対する法的助言ではありません。
公開日 2026年8月9日/改訂日 2026年9月23日 執筆者 坂本龍亮、お問い合わせ先:info@meitoku-law.jp