第61講 患者クレームはどこまで聞くべきか― 苦情とカスハラの境界
第Ⅶ部 患者対応・クレーム・応招義務
患者からの苦情は、医療機関にとって正当な情報源です。待ち時間、説明の分かりにくさ、職員の態度——指摘されて初めて気づくことは多く、苦情を受け止める姿勢がなければ医療機関は改善しません。
苦情の内容に理由があっても、暴力や脅迫まで許されるわけではありません。一方、強い不満や金銭の請求を受けただけで、カスタマーハラスメントと決めつけることもできません。この講では、正当な申入れを受け止めながら職員を守るため、判断の基準と対応体制を整理します。
例えば、「待ち時間が長すぎる。予約の意味がないじゃないか」
受付で怒鳴る患者に、事務職員が頭を下げ続けています。院長は診察室から出て行くべきか迷いました。この患者は先週も同じことを言い、先々週は「あの看護師は態度が悪い」と30分居座っていました。
これは苦情なのか、それとも、もう別のものなのか。
1 2026年10月1日から何が変わるか
改正労働施策総合推進法によるカスタマーハラスメント防止措置義務は、2026年10月1日に施行されます。医療機関も対象で、患者や家族の言動も含まれます。制度上は、顧客等の言動であること、業務の性質や事情に照らして社会通念上許容される範囲を超えること、その言動により職員の就業環境が害されることの三つが必要です。正当な苦情は対象ではありません。
必要な措置は、方針の明確化と職員への周知、相談体制、発生後の事実確認・被害者への配慮・再発防止、特に悪質な行為を抑止するための方針と対応体制です。相談者等のプライバシー保護と、相談や事実確認への協力を理由とする不利益取扱いの禁止も欠かせません。外部への方針の公表は指針が望ましい取組として示しており、院内掲示とホームページ掲載の両方が一律の法定要件というわけではありません。
本講の改訂日である2026年9月17日は施行前ですが、労働契約法5条等に基づく安全配慮は既に必要です。施行まで対策を待つことはできません。所在地の条例の適用も確認してください。
2 医療に固有の緊張 ― 応招義務との交差
ここが、一般の業種のカスハラ対応と、医療機関のそれとが決定的に違うところです。医師には、診察治療の求めがあった場合に正当な事由がなければ拒んではならないという応招義務があります(医師法19条1項)。カスハラをする患者であっても、「診療を断る」という最終手段が、当然には使えない。
この緊張について、厚生労働省は令和元年12月25日の通知(医政発1225第4号「応招義務をはじめとした診察治療の求めに対する適切な対応の在り方等について」)で考え方を整理しました。要点は次のとおりです。
- 応招義務は、医師が国に対して負う公法上の義務であり、患者に対する私法上の義務ではない。ただし、医療機関には、正当な理由なく診療を拒まないという責務がある。
- 診療しないことが正当化されるかどうかの最も重要な考慮要素は、患者に緊急対応が必要かどうか(病状の深刻度)。
- そのうえで、個別の類型として、患者の迷惑行為については、その態様に照らして診療の基礎となる信頼関係が喪失している場合(例:診療内容そのものと関係ないクレーム等を繰り返し続ける等)には、新たな診療を行わないことが正当化される。
緊急性がなく、迷惑行為の態様から診療の基礎となる信頼関係が失われている場合には、新たな診療を行わないことが正当化され得ます。ただし、苦情への対応を区切ることと、診療自体を断ることは別です。記録や警告は判断を支える資料になりますが、一定回数の警告が常に必要という制度ではありません。継続中の治療や家族による行為の扱いも含め、第65講で説明します。
3 境界の引き方 ― 三つの軸
苦情とカスハラの境界を判断する軸は、内容・要求・態様の三つです。
| 軸 | 苦情の範囲 | 境界を越え得る例 |
|---|---|---|
| 内容 | 診療・待ち時間・説明・職員の対応など、医療機関のサービスに関する指摘 | 業務と無関係な要求や人格攻撃を執拗に続ける。ただし、同じ問題の再申告でも、新しい事情や説明不足がないか確認する。 |
| 要求 | 改善、説明、謝罪、根拠のある返金・賠償の申入れなど。要求を認めるかどうかと、苦情を受け止めることは別。 | 根拠のない過大な金銭請求、職員の解雇や土下座の強要など。金銭の請求自体をカスハラとはしない。 |
| 態様 | 強い口調であっても、時間と場所が常識の範囲 | 暴力、脅迫、著しい侮辱、診療を妨げる執拗な電話や拘束。声の大きさや接触だけでなく、障害・病状・経緯も確認する。 |
内容・要求・態様のいずれかに問題があれば、安全確保や担当交代を検討します。ただし、表の例に当てはまるだけで法的な該当性が決まるわけではありません。医療機関側の不適切な対応、患者の病状、頻度や継続時間、職員への影響などを総合して判断します。障害に関する合理的配慮を求めること自体はカスハラではありません。過重な負担でない限り必要かつ合理的な配慮を行い、意思疎通の方法も工夫します。
4 初動 ― 傾聴から警告まで
初動は、安全確認、事情の把握、対応方法の調整を組み合わせます。危険があれば傾聴や警告を順番どおり済ませる必要はなく、退避や通報を優先してください。
傾聴と事実確認。何が起き、何を求めているかを聞いて記録します。時間の目安と交代先を決めることは有効ですが、一律に30分で打ち切るのではなく、内容、診療への影響、意思疎通に必要な配慮を踏まえます。継続が難しければ、書面や別の面談機会を案内します。
要求の明確化。「何を求めているのか」を、患者に言葉にしてもらいます。要求が明確になれば、応じられるかどうかを判断でき、応じられない理由を伝えられます。「誠意を見せろ」に対しては、「具体的に何をご希望ですか」と返します。
複数対応と記録。職員一人で対応させないこと。二人で対応し、一人が記録する。日時、発言内容、態様、対応した職員の名前。この記録が、第65講の「信頼関係の喪失」を示す材料になります。
警告。問題となる言動、やめてほしい行為、今後の対応を具体的に伝え、必要に応じて責任者名の書面を用います。診療の継続は緊急性等を踏まえて別に検討し、警察への相談・通報は危険性に応じて判断します。「苦情を言えば診ない」という警告にしてはいけません。
5 体制 ― 義務化に対応するために
措置義務に対応するために、クリニックが最低限整えるべきものは次のとおりです。
- 方針の明示。正当な申入れを受け止める姿勢と、暴力・脅迫等から職員を守る方針を職員に周知する。患者向けの掲示やホームページでの公表も検討し、対応できない行為と相談方法を分かりやすく示す。
- 相談窓口。職員が患者からの言動について相談できる先を決める。院長に加え、外部の窓口があれば望ましい(第52講)。
- 対応手順。複数対応、記録、担当交代、警告、通報等の判断基準と責任者を決める。悪質な行為には弁護士・警察等と連携できる体制も整え、職員に周知する。
- 被害職員への配慮。心身の状態と本人の意向を確認し、担当変更や休養、必要な支援を行う。相談者等の情報は必要な担当者に限って共有し、相談や調査への協力を理由に不利益に扱わない。
6 今日やること・やってはいけないこと
今日やること
- 対応方針を職員に周知し、患者向けの掲示や公表も検討する
- 職員が患者の言動について相談できる先を決め、周知する
- 境界を越えた場合の対応手順(複数対応・記録・警告)を文書にする
- 面談時間の目安と担当交代の手順を決め、病状や必要な配慮にも対応できるようにする
やってはいけないこと
- 「患者だから我慢しろ」と職員に言う
- 職員一人に対応させ続ける
- 苦情の中の正当な指摘まで、カスハラとして退ける
- 緊急性や継続中の治療を確認せず、苦情を理由に機械的に診療を断る(第65講)
7 よくある質問
- 正当な苦情とカスハラの区別が難しいです。
- 内容・要求・態様を手掛かりに、経緯、病状、医療機関側の対応、職員への影響まで確認します。金銭の請求や合理的配慮の申出だけでカスハラとはいえません。迷う段階から相談を受け止め、安全を確保しつつ、責任者が記録に基づいて検討してください。
- 方針を掲示すると、患者との関係が悪くなりませんか。
- 方針の掲示は、大多数の患者にとっては無関係であり、職員が守られていることを示すものです。掲示の文面は、患者を疑うトーンではなく、「安心して診療を受けていただくために、職員の安全を守ります」というトーンにしてください。
- カスハラをする患者の診療を、断ってよいのですか。
- 緊急性がなく、迷惑行為により診療の基礎となる信頼関係が失われている場合には、新たな診療を行わないことが正当化され得ます。警告や記録があれば必ず断れるわけではなく、逆に事前警告が常に必須でもありません。患者本人と家族の区別、治療の継続、転医に必要な対応を含めて判断します(第65講)。
主な法令・参考資料
- 医師法
免許処分、応招義務、異状死体等の届出(21条)、診療録(24条)。
https://laws.e-gov.go.jp/law/323AC0000000201
- e-Gov法令検索:労働契約法
16〜19条。解雇、有期契約、無期転換、雇止め。
https://laws.e-gov.go.jp/law/419AC0000000128 - e-Gov法令検索:労働施策総合推進法
30条の2(相談対応・不利益取扱い禁止)、30条の5・6(援助・調停)。
https://laws.e-gov.go.jp/law/341AC0000000132 - 厚生労働省:職場におけるハラスメントの防止のために
現行制度と2026年10月1日施行のカスタマーハラスメント等の防止措置義務。
https://www.mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/bunya/koyou_roudou/koyoukintou/seisaku06/index.html - 厚生労働省:応招義務と診療の求めへの対応
令和元年12月25日医政発1225第4号。緊急性、診療体制、患者の迷惑行為等。
https://www.mhlw.go.jp/content/10800000/000581246.pdf - 厚生労働省:カスタマーハラスメント指針(令和8年厚生労働省告示第51号)
2026年10月1日施行。定義、判断要素、事業主の措置、合理的配慮等。
https://www.mhlw.go.jp/content/11900000/001662584.pdf