第79講 医師賠償責任保険はどこまで守ってくれるのか
第Ⅷ部 医療事故・紛争対応
医師賠償責任保険は、医療事故の賠償の原資であり、医療機関の存続を支える仕組みです。しかし、保険は「入っていれば安心」なものではありません。誰が守られるのか、いつ連絡するのか、何をしてはいけないのか——契約の内容を理解していなければ、いざというときに使えないことがあります。
この講では、保険の基本的な構造と、事故の前後で院長が確認すべき点を整理します。保険の内容は契約によって異なりますので、この講を読んだうえで、自院の約款を実際に確認してください。
例えば、事故から3か月。患者側から損害賠償の請求書が届き、院長は保険会社に連絡しました。
担当者の最初の質問は、こうでした。「事故が起きた時点で、なぜご連絡いただけなかったのでしょうか」
次の質問は、「勤務医の先生は、貴院の保険の被保険者に含まれていますか」。
院長は、どちらにも答えられませんでした。
1 誰の責任を、誰の保険が填補するか
第76講で見たとおり、法人と勤務医はそれぞれ責任を負う場合があります。保険では、誰が被保険者で、どの立場の責任を補償するかが重要です。大きく次の二つを確認します。
| 保険 | 填補の対象と確認点 |
|---|---|
| 医療機関(法人・開設者)の保険 | 医療機関が負う損害賠償責任を填補する。被保険者の範囲に、管理者・勤務医・非常勤医師・看護師等の職員が含まれているかは契約によって異なる。「法人が入っているから勤務医も守られる」とは限らない。 |
| 医師個人の保険 | 医師個人の損害賠償責任を契約の範囲内で補償する。勤務先の保険と対象が重なる場合もある。個人への請求や弁護士費用の扱いと、重複する保険間の調整を確認する。 |
冒頭の二つ目の質問——勤務医が被保険者に含まれているか——は、事故が起きてから確認するものではありません。雇用契約を結ぶ時点で、法人の保険の被保険者の範囲と、勤務医個人の保険加入の有無を確認しておく(第31講)。非常勤医師についても同じです(第32講)。
例えば、日本医師会の公開案内では、日医医賠責保険は一人医師医療法人を除き法人への請求を対象外とし、特約により一定の法人も対象にできるとされています。医師個人が加入していることと、開設法人の責任まで補償されることは同じではありません。施設の種類や加入条件も確認してください。
2 保険金の範囲と限度
主な補償は、対象となる法律上の損害賠償金と、契約で定める争訟費用です。責任が認められることと、その金額が保険で全額支払われることは別です。次の点を確認します。
- 支払限度額——1事故あたりと、保険期間中の合計。医療事故の賠償額は、後遺症が残った場合や死亡の場合に高額になることがあり、限度額が足りるかは自院の診療内容に照らして判断する。
- 免責金額——賠償額のうち自己負担となる金額。「免責事由」(補償対象から除かれる事情)とは区別する。弁護士費用にも適用されるか等は契約による。
- 対象となる診療の範囲——美容医療や自由診療の一部について、通常の保険では対象外とされ、特約が必要な場合がある(第Ⅹ部)。
- 免責事由——故意、対象外の業務など、約款が具体的に定める除外事項を確認する。法令違反がある事故はすべて対象外、という意味ではない。告知義務違反についても、質問事項や解除・不払いの条件を確認する。
保険期間の条件も重要です。事故が起きた日、最初に損害賠償請求を受けた日、保険会社へ通知した日が、補償のどの要件になるかは契約によって異なります。過去の診療を対象にできる範囲、既に知っていた事故の扱い、保険の切替え・退職・閉院後の請求への備えも確認してください。
争訟費用には事前の承認や限度がある場合があります。刑事弁護費用や行政手続の費用が当然に含まれるわけでもありません。例えば、日医医賠責特約保険の公開案内は、罰金・科料や刑事弁護費用等を支払対象外としています。必要な補償や別の特約の有無を確認します。
3 事故が起きたら ― 通知の時期
冒頭の最初の質問——なぜ事故の時点で連絡しなかったのか——が、この講で最も伝えたい点です。
事故や請求をいつ通知するかは、加入契約の条件に従います。早めに取扱窓口へ連絡し、必要な手続を確認してください。通知の遅れによる減額等の扱いは約款と事情によります。また、通知義務違反による影響と、請求・通知の時期が補償の要件を満たさない問題は別です。「遅れても一部の減額で済む」とは限りません。
第一報では、その時点で分かる事故の概要、患者の状態、相手からの連絡等を正確に伝えます。不明な原因や責任を推測で確定させる必要はありませんが、求められた情報や書面は確認して追加します。第一報だけで手続が完了するとは限らないため、必要な報告、期限、連絡先を記録してください(第71講)。
4 責任の承認・示談と、必要な説明を区別する
責任の承認、賠償額の約束、示談や支払について、保険会社との事前協議・承認を求める契約があります。条件に反した場合の保険金への影響は、約款と具体的な事情によります。「謝罪したらすべて不払い」「承認のない示談は必ず全額不払い」と一括りにはできません。
患者へのお悔やみ・共感、確認できた事実の説明、法的責任や賠償範囲の判断を分けて考えます(第73講)。対応への謝罪であっても、内容と経緯によって法的な評価が問題になる場合があります。確認済みの誤りや必要な説明を保険のために伏せず、未確認の責任や金額を約束しないことが大切です。保険会社・弁護士への相談は並行して進めます。
5 弁護士の選任と示談の権限
加入している保険で、誰が交渉を進め、どのような支援を受けられるかを確認します。保険会社が当然に示談を代行するとは限りません。弁護士の紹介、医療機関側での選任、弁護士費用の事前承認、費用の上限等も、契約と取扱窓口に確認してください。
示談を成立させるのは当事者又は権限のある代理人です。一方、示談額を保険で賄えるかは保険契約の問題であり、医療機関が約束した額が当然に保険会社を拘束するわけではありません。合意前に必要な承認を受け、自己負担額、支払時期、弁護士費用も確認します(第80講)。
6 事故が起きる前に確認すること
保存版 医師賠償責任保険の確認事項
- 被保険者の範囲——法人・管理者・勤務医・非常勤医師・看護師等の職員のうち、誰が含まれているか。
- 勤務医の個人保険——雇用契約時に加入の有無を確認しているか。
- 支払限度額と免責金額——自院の診療内容に照らして足りるか。
- 対象診療の範囲——自由診療・美容医療を行っているなら、対象か、特約が要るか。
- 通知の条件——いつ、何を、どう通知するか。担当者の連絡先。
- 責任承認の条項——事前協議・承認が必要な行為と、必要な事実説明・謝罪を区別して理解しているか。
- 弁護士の選任方法——保険会社紹介か自ら選任か。費用の承認手続。
- 示談の手続——事前協議・承認の要否と、自己負担や支払時期を確認しているか。
- 契約時・更新時の告知と契約中の通知——質問事項に正確に回答し、診療内容や施設の変更等について契約上必要な連絡をしているか。
- 約款と保険期間——証券・約款・特約をすぐ読めるか。事故日・請求日・通知日の条件、切替え・退職・閉院後の請求への備えを確認しているか。
7 よくある質問
- 事故から時間が経ってから請求されました。今から通知して間に合いますか。
- 直ちに取扱窓口へ連絡し、事故日、請求を受けた日、以前の契約、これまでの通知状況を伝えてください。適用される契約や通知の条件によって結論が変わり、今から必ず補償されるとはいえません。遅れた理由を正確に説明し、必要な資料を提出します。
- 患者に「保険で払います」と言ってしまいました。
- 発言の意味は前後の説明や経緯によって評価されます。発言内容を正確に記録して保険会社・弁護士に伝え、患者への追加説明を相談してください。保険での支払が未確定なのに確約した点があれば、そのまま放置せず説明します。必要な事実説明は続けます。
- 保険会社が紹介する弁護士ではなく、顧問弁護士に依頼したいのですが。
- 顧問弁護士に依頼することと、その費用を保険で賄えることは別です。事前承認や費用の条件を確認してください。訴訟の期限が迫るなど緊急の場合は、承認待ちで必要な対応を遅らせず、依頼と費用について速やかに調整します。
主な法令・参考資料
- 日本医師会:日本医師会医師賠償責任保険制度
日医医賠責保険と特約の概要。適用は加入区分、保険期間、約款等による。
https://www.med.or.jp/doctor/sonota/sonota_etc/003368.html - 日本医師会:日医医賠責特約保険の内容
法人への請求、対象施設、支払対象、他の保険との調整等。
https://www.med.or.jp/doctor/ibaiseki/tokuyaku.html