第83講 自主返還を求められた― どこまで遡り、いくら返すのか
第Ⅸ部 診療報酬・指導監査・行政対応
個別指導後の自主点検・返還は、指導で抽出された患者の分だけで終わるとは限りません。同じ指摘事項に該当する請求がほかにもあれば、その分も点検の対象となります。ただし、「対象期間の全患者分」とは、診療報酬を全部返すという意味ではありません。何を、どの期間、どの患者について点検するかを確かめます。
この講では、自主返還の性質、範囲の確認、計算、資金繰りを整理します。行政指導として返還への同意を求められることと、法律上の返還義務があることは別の問題です。指摘を無条件に受け入れるのでも放置するのでもなく、根拠と事実を確認して対応します。
例えば、個別指導の結果通知に、自主点検と返還に関する連絡が添えられていました。この例では、指導月前1年分を点検し、1か月後までに書類を提出するよう求められています。事務長の概算は約800万円。院長は尋ねました。「指導で見たのは30人なのに、なぜほかの患者の分も調べるのですか」。
1 自主返還の根拠と範囲
個別指導後の自主返還は、医療機関が指摘事項を点検し、返還に同意する手続です。行政指導としての返還要請は、それ自体が法律上の返還を命ずる処分というわけではありません。一方、根拠なく受け取った診療報酬については、不当利得等に基づく返還義務が別に問題になります。
範囲は、制度の種類によって違います。
| 制度 | 返還の範囲 |
|---|---|
| 個別指導 | 指摘事項と同様の請求を、通知等で示された期間・範囲について自主点検する。抽出患者以外も含むが、すべての診療報酬が当然に返還対象になるわけではない。 |
| 適時調査(施設基準) | 厚生労働省の適時調査実施要領では、前回の適時調査等以降分を対象に、施設基準を満たさなくなった日の属する月の翌月から現時点までの返還を求める取扱い。個別の施設基準、変更時期や請求権の問題も確認する。監査と同じ5年間が、当然に適用されるわけではない。 |
| 監査 | 監査要綱では、不正・不当事項に係る返還期間は原則5年間。偽りその他不正の行為による支払には、健康保険法58条3項等に基づき、保険者が返還額の40%の加算金を支払わせることができる。すべての返還に自動的に付くものではない。 |
冒頭の例では、1年間について同じ指摘に当たる請求を調べるよう求められています。抽出された患者以外にも誤った算定がないか確認するためです。対象事項、診療月、患者、保険者を分け、該当する請求を一件ずつ特定します。期間を「必ず1年」「最長5年」などと決めつけず、通知と適用される取扱いを確かめてください。
行政上の返還対象期間と、民法等に基づく請求権の消滅時効も同じではありません。返還の根拠、支払時期、時効の起算点や完成への影響などで判断が変わります。期間や法的義務を争う場合は、同意書への署名前に弁護士と整理します。
2 手続と計算
自主点検。対象期間のレセプトから該当項目を抽出し、当時の算定要件、診療録、交付文書等と照合します。患者・診療月・算定項目・回数・点数・保険者を整理し、査定済み、返還済み、請求の訂正済みのものを二重に計上しないようにします。指摘への疑問と、計算上の誤りは分けて確認してください。
返還関係書類。求められた様式、提出先、期限を確認します。同意する事項・期間・金額が明確か、院内の決裁権限も確かめて提出し、控えを残します。点検に時間がかかる、又は解釈が一致しない場合は、期限前に理由と進捗を連絡して対応を相談します。
返還の方法。今後の診療報酬からの控除、保険者への直接返還などがあります。医療機関だけで自由に方法や分割回数を決められるものではありません。厚生局、保険者、審査支払機関と、金額、時期、手続を確認します。控除が一度に行われれば、その月の入金が大きく減る場合もあります。
患者負担分。患者が実際に支払った一部負担金に過払いがあれば、返金が必要です。保険者への返還額から単純に一定割合を掛けて決めず、高額療養費、公費、負担上限、既に行った精算等との関係を確認します。説明、連絡方法、返金先、未返金分の管理を決め、二重返金を避けて記録を残します。
3 資金繰り ― 経営リスクとして
返還額が大きければ、給与、家賃、仕入代金等の支払にも影響します。保険者への返還と患者への返金を分け、金額と時期を見積もります。返還関係書類を提出する前から、次の点を確認してください。
- 保険者への返還、患者への返金、加算金が問題になる場合の額と、実際の支払・控除時期。
- 予定される返還方法が資金繰りに与える影響と、方法・時期について協議が必要か。
- 会計・税務の相談——返還が確定する時期や経緯に応じた計上・申告の処理を税理士に確認する。過去の収入を必ず修正するとは限らない。
- 金融機関への説明——必要額、返還理由、改善策、今後の資金計画を事実に基づいて説明する。「不正ではない」などと、未確認の評価を断定しない。
4 納得できない指摘 ― 何ができるか
指摘の解釈や返還範囲に疑問がある場合は、理由と資料を示して意見を述べます。行政手続法32条は、行政指導に従わなかったことだけを理由とする不利益な取扱いを禁じています。返還への同意をしないことと、健康保険法上の指導を正当な理由なく拒否することは、区別しなければなりません。
まず、適用された告示・通知、診療当時の要件、問題とされた事実を確認します。見解が違う部分は具体的に示し、必要なら書面で根拠を照会します。行政手続法35条は、行政指導の趣旨・内容・責任者を明確にすることなどを求めています。同意できる範囲と争う範囲を分け、弁護士等と対応を検討します。
もっとも、返還に同意しなければ法律上の債務もなくなる、ということではありません。不正又は著しい不当を疑うに足りる理由等があれば、所定の基準に基づく監査の問題も生じます。不同意に対する制裁と、別の根拠に基づく調査・請求を混同しないことが大切です。
5 再発防止 ― 返還を一度で終わらせるために
返還だけで対応は終わりません。誤った算定が続かないよう、診療と請求の手順を見直します。度重なる指導でも改善がないことは監査の選定基準です。一度同じ指摘が出れば必ず監査になる、という意味ではありませんが、改善の実行と定着が重要です。
- 指摘事項の院内共有——医師と事務の双方に、何が、なぜ不適切とされたかを具体的に伝える。
- 算定手順の見直し——指摘された項目について、算定の要件と、カルテに記載すべき内容を明文化する(第84講)。
- 改善報告書——厚生局に提出する改善報告書は、形式的なものにせず、実際の運用変更を記載する。改善報告書の内容と実態が違えば、次の指導で問われる。
- 定期的な自己点検——指摘事項について、数か月後に自院で抽出点検を行い、改善が定着しているかを確認する。
6 今日やること・やってはいけないこと
今日やること
- 返還の連絡が来たら、指摘事項の根拠と、自主点検の範囲(事項・期間・患者)を確認する
- 返還・返金額と支払時期を見積もり、資金繰りへの影響を確認して返還方法等を協議する
- 患者負担分の返金の要否を、厚生局・保険者に確認する
- 指摘事項について、算定手順とカルテ記載のルールを見直す
やってはいけないこと
- 指導で対象になった患者の分だけで返還を済ませようとする
- 根拠・金額・同意の意味を確認せず署名する、又は疑問を伝えず連絡や期限への対応を放置する
- 患者負担分の返金を見落とす
- 改善報告書を、実態の変更なしに形式的に出す
7 よくある質問
- 自主返還に応じないと、どうなりますか。
- 自主返還への不同意だけを理由に、不利益に扱うことはできません。ただし、法律上の返還義務や、別の根拠に基づく監査の可能性までなくなるわけではありません。何に異議があるかを具体的に示し、指導を受ける義務への対応と分けて弁護士に相談してください。
- 返還額が大きく、一括では払えません。
- 診療報酬からの控除が、そのまま分割払いになるとは限りません。返還額、通常の入金、必要経費を整理し、厚生局・保険者・審査支払機関に方法と時期を早めに相談します。分割や猶予が認められるとは断定できないため、合意した条件を書面等で確認してください。
- 指導で指摘された事項が、他の医師の診療分にも及んでいます。
- 同じ指摘事項に当たる請求があれば、担当医が違っても点検の対象になります。ただし、他の医師の診療も自動的に不適切と決まるわけではありません。実施内容・記録・算定要件を一件ずつ確認し、診療の個別性を保ちながら請求の手順を整えます。
主な法令・参考資料
- 民法
166条の消滅時効、703条の不当利得等。契約、損害賠償、和解、相続・財産分与。
https://laws.e-gov.go.jp/law/129AC0000000089
- 健康保険法
58条3項の不正利得の返還・加算金、65条の指定、73条の指導、78条の調査、80条・81条の取消し等。
https://laws.e-gov.go.jp/law/211AC0000000070
- 厚生労働省:指導大綱・監査要綱
令和8年3月30日改正。指導の選定・出席者・結果、監査の選定・措置・原則5年間の返還等。
https://www.mhlw.go.jp/content/001685596.pdf - e-Gov法令検索:行政手続法
32条の行政指導の一般原則、35条の行政指導の方式。
https://laws.e-gov.go.jp/law/405AC0000000088 - 厚生労働省:適時調査実施要領
対象・実施時期、調査後の改善・返還、定例報告等。令和8年度の施設基準通知を引用する公開版。
https://www.mhlw.go.jp/seisakunitsuite/bunya/kenkou_iryou/iryouhoken/dl/chousa_01-1.pdf