第86講 元職員が厚生局に内部告発した― 行政調査と労務紛争が交差するとき
第Ⅸ部 診療報酬・指導監査・行政対応
元職員から行政に情報が寄せられた場合、診療や請求についての調査と、未払残業代・解雇・ハラスメント等の労務紛争が並行することがあります。両者は別の手続ですが、院内で何が行われていたかという事実や記録が共通する場合があります。情報提供があっただけで、必ず調査や労務紛争が始まるわけではありません。
この講では、通報があったと考えられるときの初動を整理します。まず確かめるのは、指摘された内容と自院の実態です。通報者を探し出したり、報復したりせず、通報者の保護と事実の調査を両立させます。
例えば、個別指導の通知が届きました。医療事務のリーダーが退職して2か月後のことです。退職時には残業代の支払をめぐる争いがありました。院長は「あの人が厚生局に何か言ったのか」と考えます。しかし、通知の時期だけで選定の理由や情報提供者を決めつけることはできません。
1 情報提供が指導・監査のきっかけになることがある
指導大綱は、審査支払機関、保険者、患者等からの情報に基づき、個別指導が必要と認められる医療機関を選定の対象としています。情報提供だけで内容が事実と決まるわけではありません。不正又は著しい不当が疑われるなど監査の選定基準に該当すれば、個別指導を経ずに監査が行われることもあります(第81・82講)。
退職の経緯や人間関係から、通報の有無や内容の正しさは判断できません。自院に届いた通知と、実際に指摘された事項を手がかりに準備します。推測で元職員に連絡し、説明や撤回を迫ることは避けてください。
2 最初に確認すること ― 事実
院長が最初にすることは、指摘された診療・請求・院内業務の実態を確かめることです。通報者の特定を目的とした聞き回りはせず、関係資料を保全し、調査に必要な範囲で担当者から事実を聞き取ります。
点検する事項には、実施していない処置の請求、算定要件の不足、施設基準の不適合、診療録の不適切な書換え、無資格者による医行為、患者情報の管理等があります。記録の追記には正当なものもあり、人員配置にも所定の判定方法や例外があります。疑いだけで結論を出さず、実際の行為と当時の要件を照合します(第72・84・85講)。
誤りが確認できたら、時期、範囲、原因を整理し、必要な是正・報告・返還に対応します。事実でない部分や評価が異なる部分は、資料を示して説明します。改善や返還を行えば必ず監査を免れるわけではありません。一方、誤りを隠すための改ざんや虚偽の説明は、元の請求とは別の問題にもなります。
3 告発者への対応 ― 法律が禁じていること
公益通報者保護法は、所定の要件を満たす通報を理由とする解雇を無効とし、不利益な取扱いを禁じています。対象には、労働者のほか、退職後1年以内の者や役員等が含まれます。すべての苦情や請求の誤りが、当然に同法の「通報対象事実」に当たるわけではありません。対象法令の犯罪・過料や、一定の処分につながる事実など、法律の定める範囲があります。
行政への通報にも保護要件があります。労働者による通報では、権限のある行政機関等に対し、通報対象事実があると信じる相当の理由がある場合、又は法律所定の事項を記載した書面を提出する場合等が対象です。不正な目的がないことも必要です。調査の結果、違反が確認できなかったというだけで、直ちに保護が失われるわけではありません。
保護される通報を理由に、退職金を支払わない、再就職を妨げる、通報者の名前を不必要に広める、といった対応をしてはいけません。同法7条は、所定の保護要件を満たす通報によって損害を受けたことを理由とする賠償請求も禁じています。同法の対象外であっても、報復が不法行為等に当たる場合があります。
必要なのは、通報を受け止めて調査・是正し、情報の共有範囲を絞り、通報者への不利益な取扱いを防ぐことです。内部通報であれば、適切な範囲で結果等を知らせる対応も検討します。「何もしない」で放置せず、通報対応と元職員との紛争処理を分けて進めます。
内部通報の体制整備と従事者の指定は、常時使用する労働者が300人を超える事業者では義務、300人以下では努力義務です。人数が少なくても、保護される通報を理由とする不利益な取扱いが許されるわけではありません。令和7年改正法は令和8年12月1日施行のため、施行前の制度と区別して準備します。
4 二つの紛争を分けて進める
行政対応と労務紛争は、別の手続として、それぞれの専門家とともに進めます。
| 紛争 | 対応 |
|---|---|
| 行政対応 | 通知に沿った準備、資料の保全、診療・請求の事実確認、必要な改善を行う。指摘の根拠と対象範囲を確かめ、説明・返還等に対応する。指導監査に詳しい弁護士や保険医協会等に相談する。 |
| 労務紛争 | 未払残業代・解雇・ハラスメント等は、記録と法的根拠に基づいて対応する。通報への報復や、通報撤回を条件とする取引にしない。相談・交渉・訴訟の内容に応じて、弁護士や社会保険労務士に相談する。 |
二つの紛争で共通するのは、記録です。行政対応で示す記録(カルテ・レセプト・勤務実績)と、労務紛争で示す記録(労働時間・指導の記録)は、同じ院内の記録です。一方の紛争のために記録を変えれば、他方の紛争で矛盾が生じます。第72講の原則は、ここでも同じです。
5 証拠の保全 ― 二つの意味
「証拠保全」には、この局面では二つの意味があります。
自院の記録を保全する。診療録、請求記録、勤務実績、メール、電子カルテの操作ログ等を保存し、削除や上書きを防ぎます。診療に必要な新たな記録まで止める必要はありません。正当な追記・訂正は、元の記録を残し、現在の日時、担当者、理由と根拠を明示して行います。
情報管理上の事故を調べる。患者情報の漏えい等が疑われる場合は、アクセスログや貸与物を必要な範囲で調べ、被害拡大の防止と報告・本人通知の要否を検討します。通報者探しの口実にしてはいけません。資料の収集・提供が違法かどうかは、目的、必要性、方法、情報の範囲等を踏まえた別の判断です。「資料を持ち出したから通報は保護されない」と決めつけないでください。
6 院内への説明
指導の通知と元職員の退職が近い時期に重なれば、残っている職員も「あの人が言ったのでは」と考えます。院内で告発者の推測が広がることは、職員の分断と、「次に告発するのは誰か」という疑心を生みます。
職員には、指導の予定、資料保全、事実に基づく説明、必要な改善と役割分担を伝えます。通報者を推測する発言は控え、報復やうわさの拡散を防いでください。内部窓口や行政への適法な通報、弁護士等への相談を妨げないことも共有します。
7 今日やること・やってはいけないこと
今日やること
- 告発されたと思われる内容について、自院の実態を記録に基づいて確認する
- 事実である部分は、時期・範囲・原因を整理し、改善に着手する
- 記録を保全し、電子カルテのログを保存する
- 行政対応と労務紛争を、別の手続として、それぞれの専門家と進める
やってはいけないこと
- 「誰が言ったか」を特定しようとする
- 通報への報復として、元職員に不利益を与えたり、損害賠償請求をちらつかせたりする
- 元の記録を消す、日付を戻す、当時の記載があったように装う
- 職員の前で告発者を推測する
- 労務紛争の交渉に、告発の有無を持ち込む
8 よくある質問
- 元職員が告発したという証拠があります。損害賠償を請求できますか。
- 同法7条の対象となる通報については、その通報で損害を受けたことを理由とする賠償請求はできません。内容が事実と確認できなかっただけで、虚偽・悪意と決めつけることもできません。意図的な虚偽等が疑われる場合でも、保護要件と行為の内容を弁護士と検討し、報復を避けてください。
- 告発の内容は事実です。指導でどう説明すればよいですか。
- 確認できた事実、時期、範囲、原因と、既に行った改善を資料に基づいて説明します。請求に誤りがあれば、返還等の対象も確認します。是正や返還をしても、監査や処分が行われないと約束されるわけではありません。
- 元職員と未払残業で争っています。告発されたことを考慮すべきですか。
- 考慮すべきではありません。未払残業の紛争は、労働時間の記録と法律に基づいて判断されるものであり、告発の有無は関係しません。告発を理由に不利な扱いをすれば、それ自体が違法の問題になります。
主な法令・参考資料
- 健康保険法
58条3項、65条、70条の2、71条、73条、78条〜82条等。管理者の責務、指定・登録の取消しを含む。
https://laws.e-gov.go.jp/law/211AC0000000070
- 個人情報保護委員会・厚生労働省:医療・介護ガイダンス
診療情報の取扱い、漏えい等の報告、第三者提供。
https://www.ppc.go.jp/personalinfo/legal/iryoukaigo_guidance/ - 消費者庁:公益通報者保護法と制度の概要
現行制度、令和7年改正と2026年12月1日の施行。
https://www.caa.go.jp/policies/policy/consumer_partnerships/whisleblower_protection_system/overview - e-Gov法令検索:公益通報者保護法
通報者の範囲、通報先に応じた保護要件等。
https://laws.e-gov.go.jp/law/416AC0000000122 - 厚生労働省:診療情報の提供等に関する指針
遺族への情報提供、開示手続、非開示、記録の訂正等。
https://www.mhlw.go.jp/shingi/2004/06/s0623-15m.html - 厚生労働省:指導大綱・監査要綱
令和8年3月30日改正。指導の選定・出席者・結果、監査の選定・措置・原則5年間の返還等。
https://www.mhlw.go.jp/content/001685596.pdf - 消費者庁:公益通報者保護法に基づく指針の解説
令和8年12月の改正施行前の制度。通報対応、調査・是正、不利益取扱い防止、通報者の秘密保護等。
https://www.caa.go.jp/policies/policy/consumer_partnerships/whisleblower_protection_system/overview/assets/overview_211013_0001.pdf