『税理士法人・社労士法人の内部紛争30講 ― 共同経営「解消」の教科書 ―』【第16講】
相殺という反撃
― 義務違反の損害賠償と持分払戻しのぶつけ方 ―
相手から、持分払戻しを求める内容証明が届きました。金額は2,000万円。ところが残る側の手元には、相手が社員のまま個人名義で受任していた顧問先のリストと、その顧問先から相手が受け取った報酬の記録があります。この2つをぶつけると、何が起きるか。
持分の払戻しは法人の債務です。他方、相手の在任中の義務違反は、法人の相手に対する損害賠償請求権を生みます。法人は、この請求権を払戻債務と相殺できます。相殺は、残る側が「支払額を圧縮する」ための最も直接的な技術であり、同時に、相手の違法行為を放置しなかったという姿勢を数字で示す手段でもあります。第16講は、反対債権をどう作り、どうぶつけ、どこに限界があるかを整理します。
1 反対債権を作る3つの源泉
相殺に使える法人の債権――反対債権――は、相手が社員である間の行為から生まれます。第5講で見た社員の義務に対応して、源泉は3つです。
源泉① 競業禁止違反(推定規定つき)
税理士法48条の14第2項・社労士法25条の18第2項が推定するのは、違反業務によって社員又は第三者が得た利益に対応する損害額です。報酬の受領合計額と利益は同じではありません。対象業務、期間、収入、対応する必要経費、利益の帰属先を具体的に示します。
源泉② 忠実義務違反
会社法593条の準用により、社員は法人のために忠実に職務を行う義務を負います。競業禁止には直接当たらないが法人の利益を損なう行為――独立後に一緒に働く目的での従業員への働きかけ(第22講)、顧客データの持出し(第23講)、法人の信用を毀損する言動、法人の受任機会を自分に流す行為――は、忠実義務違反として損害賠償の対象になります(会社法596条の準用)。推定規定はないので、損害の発生と金額を法人側が立証する必要があります。
源泉③ 経費の私消・利益相反取引
法人の経費で私的な支出をした、法人の資金を無断で個人口座に移した、他の社員の承認なく法人と自己取引をした(会社法595条の準用)。こうした行為は、金額が帳簿で特定できるため、反対債権として最も計算しやすい類型です。金額は小さくとも、除名事由(第8講)としての意味も持ちます。
以上は主に在任中の義務違反です。在任中に行った業務の入金が脱退後にあった場合も、入金日だけで対象外とせず、どの業務による利益かを確認します。脱退後の契約違反、不正競争、不法行為等による法人の反対債権も、成立すれば相殺の検討対象になります。
2 競業利益の推定 ― 収入・費用と損害額を分ける
損害賠償を請求する側は、通常、①違反行為、②損害の発生、③損害額、④違反行為と損害の因果関係を立証しなければなりません。顧問先の引抜きでは、②〜④が難所です。顧客が離れた理由は複数あり得るし、離れた顧客からの報酬をいつまで得られたかも確定できない。
社員の地位と対象業務、違反行為、利益の発生・帰属・額を示したうえで、法定の損害額推定を主張します。推定は反証可能です。「報酬額を示せば、違法性から因果関係まで全て立証済み」とする説明にはできません。
顧客・業務・期間ごとの収入から、その業務に対応する外注費、担当人件費その他の必要経費を検討します。固定費・共通費をどこまで配賦するかは、業務との関係と実際の費用資料に即して説明します。全経費を一律に控除する、又は固定費を必ずゼロとする一般式は置きません。資料未取得の費目と暫定額を明示し、入金記録だけで最終利益額と扱わないことが要点です。
相手方は利益計算そのものを争うほか、推定される損害額への反証をすることがあります。違反業務と関係のない入金、他の担当者による業務、相手法人の経費等を区別できる資料を準備し、推定の対象と反証対象を整理します。
通知の例は次のようになります。「別紙の業務について、在任期間中の競業禁止違反を主張します。現時点で確認できた収入は〇円、対応経費として確認できた額は△円、暫定利益は〇円−△円=□円です。経費・対象期間・利益帰属の資料開示を求め、確認後に請求額を確定又は修正します。この利益額について法定の損害額推定を主張します」。損害賠償債権の有無と額を確認しないまま、払戻額から報酬収入全額を差し引かないでください。
3 相殺の設計 ― 要件・時期・合意書での処理
民法505条・506条の相殺では、同じ当事者間の同種の債権であること、自働債権の弁済期、相殺禁止の有無等を確認します。法人が持つ損害賠償債権を自働債権とし、元社員の法人に対する払戻請求権を受働債権とします。代表社員個人の債権や、新法人だけに対する債権は、当然にはこの相殺に使えません。第三者が得た競業利益を推定計算に使えることと、相殺の当事者が一致することも別です。
自働債権の弁済期と、受働債権について期限の利益を放棄できるかを確認します。債権の発生、金額の確定、履行遅滞の開始は同一ではありません。分割払い、期限猶予、未完了事項の計算がある場合は、その合意と611条4項も照合します。
民法509条は、悪意による不法行為等の損害賠償債務を負う者からの相殺を制限します。元社員が加害者である場合、その元社員が自分の払戻請求権で損害賠償債務を消そうとする側に適用が問題となります。被害者である法人が損害賠償債権を自働債権として相殺する場面とは向きが違います。他の相殺制限も別途確認します。
相殺をどの段階で行うかは、3つの場面に分かれます。
交渉段階では、内容証明で相殺の意思表示をするか、相殺の予定を示して払戻額の減額を求めます。相殺の意思表示は一方的に効力を生じますが、自働債権の金額が確定していない段階で相殺を宣言すると、後に金額が争われたときに払戻債務の一部が未払いとして扱われ、遅延損害金の問題を招くことがあります。交渉段階では「相殺を主張する予定である」と示し、金額は合意書で確定させるのが穏当です。
訴訟段階では、相手が持分払戻請求の訴えを起こしてきた場合に、相殺の抗弁として主張します。自働債権の存在と金額を立証し、認められれば、その分だけ払戻請求が減額されます。訴訟上の相殺は、自働債権について既判力が生じる点(民事訴訟法114条2項)に留意が要ります。
合意段階では、脱退合意書に、払戻額、損害賠償額、相殺後の支払額を明記し、清算条項で他に債権債務がないことを確認します。ここで決め手になるのは、第3講で述べたとおり、清算条項を入れる前に、相手起因の債務(賠償請求のリスクを含む)を洗い出しておくことです。合意後に判明した損害について求償の道を残したいなら、清算条項に「ただし、〇〇に関する損害についてはこの限りでない」という留保を置きます。
4 基準時の戦略 ― 脱退ルートで変わる計算の締め日
相殺と一体で考えるべきなのが、払戻額の計算の基準時です。611条2項は「退社の時」の法人財産の状況で計算すると定め、除名の場合は「除名の訴えを提起した時」に読み替えます(同条5項)。基準時がいつになるかは、脱退のルートによって変わり、それによって「相手の行為による法人財産の減少」が払戻額に反映されるかどうかも変わります。
| 脱退のルート | 払戻計算の基準時 | 相殺との関係・残る側の視点 |
|---|---|---|
| 任意退社(606条1項の原則) | 要件を満たす事業年度末。定款も確認 | 基準日の資産減少だけでなく、法人に帰属する損害賠償債権の価値も評価し、払戻し・相殺とつなぐ。 |
| 総社員の同意による脱退 | 合意で定めた効力発生日 | 早い基準日では高い価値で払戻額が固定される場合がある。早期分離で避けられる損失と比較する。 |
| やむを得ない事由による即時退社 | 退社の意思表示が効力を生じた日 | 退社の効力自体を争う場合、基準時も争点になる。相手の主張どおりの日を基準とするなら、その日以前の行為が反対債権の対象。 |
| 除名 | 除名の訴えの提起時(611条5項) | 提訴時の評価と、その後の義務違反による損害を分ける。611条6項の利息も計算する。 |
財産評価からの控除か損害賠償かという単純な二者択一ではありません。例えば、基準日までに1,200万円の価値が失われても、同額の回収可能な損害賠償債権が法人に生じているなら、残った財産3,800万円と債権1,200万円で合計5,000万円です。50%の払戻額2,500万円から賠償債務1,200万円を相殺するなら現金1,300万円となります。反対に、債権がない適法な流出なら、3,800万円×50%=1,900万円です。債権の回収可能性を評価せずに両方の計算を混ぜると、重複控除になります。
5 限界と注意 ― やり過ぎは交渉と訴訟の両方で不利になる
相殺は強力ですが、使い方を誤ると残る側の首を絞めます。
過大な請求は交渉を壊す。推定規定があるからといって、相手の脱退後の収入まで含めた金額や、根拠の薄い「信用毀損」の損害を積み上げて反対債権を膨らませると、相手は交渉を打ち切り、訴訟で払戻しを請求してきます。訴訟では、反対債権の立証責任は法人にあり、推定規定が使えるのは在任中の競業に限られます。立証できない反対債権は、判決で切り落とされるだけでなく、法人側の主張全体の信用を下げます。
因果関係は丁寧に。推定規定は損害額を推定しますが、相手の行為が「法人の業務範囲に属する業務」であること、それが社員在任中であることは、法人が立証します。脱退後の受任を在任中のものと混同したり、相手が関与していない顧客の離脱まで相手の責任にしたりすれば、その部分は認められません。
証拠の集め方の適法性。相手の私用メールや私物を無断で調べて得た資料は、それ自体が違法行為となり、相手からの反撃の材料になります(第9講)。反対債権の証拠は、法人の業務資料、法人のシステムのログ、顧客からの聴取、公開情報から集めるのが原則です。
未完了事項の処理。611条4項により、脱退時に完了していない事項は完了後に計算できます。進行中の申告業務の報酬や、確定していない賠償請求は、この枠で後に精算する設計にすると、合意書の締結が早まります。
相殺の本質は、相手の義務違反を放置せず、法的に正当な範囲で法人の損失を回復することです。それを超えて相手を懲らしめる道具にした瞬間に、相殺は残る側の弱点になります。
残る側の視点で押さえておくこと
相手の在任中の競業・忠実義務違反・経費私消は、法人の損害賠償請求権になり、持分払戻債務と相殺できます。競業については得た利益が損害と推定され、立証の負担が逆転します。相殺の時期は交渉・訴訟・合意の3段階で設計し、基準時とセットで、相手の行為を「払戻額の減少」と「損害賠償」のどちらで評価するかを決めてください。そして、立証できない反対債権を膨らませないこと。相殺は法人の損失の回復であり、懲罰ではありません。
【本講で引用した主な法令】税理士法48条の14・48条の21/社会保険労務士法25条の18・25条の25/会社法593条・595条・596条・611条/民法505条・506条・509条/民事訴訟法114条
| 基準日・その後の条件(別途の賠償債権なし) | 払戻額 | 流出・払戻し後に残る価値 |
|---|---|---|
| 流出前に確定。その後1,200万円の価値減少 | 5,000×50%=2,500万円 | 5,000−2,500−1,200=1,300万円 |
| 流出後に確定 | (5,000−1,200)×50%=1,900万円 | 3,800−1,900=1,900万円 |
| 早期分離により価値減少を防止 | 5,000×50%=2,500万円 | 5,000−2,500=2,500万円 |
第7講と同じ設例。税金・時間価値・資金調達費用は除外。早い基準日自体の効果と、流出を防ぐ業務上の効果を分ける。