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『税理士法人・社労士法人の内部紛争30講 ― 共同経営「解消」の教科書 ―』【第29講】

もめてしまったら ― 残る側の実戦ロードマップ【証拠・交渉・脱退合意書】

『税理士法人・社労士法人の内部紛争30講 ― 共同経営「解消」の教科書 ―』【第29講】

29第Ⅵ部 予防・実戦編第29講

もめてしまったら
― 残る側の実戦ロードマップ【証拠・交渉・脱退合意書】 ―

「辞めさせてもらう」と言われた場面を想定し、本講では対応を6つに分けて整理します。初動、態勢構築、交渉、合意書、決裂時の手続、合意後の実行です。これは本稿の説明順序であり、標準的な所要期間や実際の事件の進行を示すものではありません。

本講は、この6幕を頭から通しで描きます。連載のここまでの28講は、いわば各場面の武器の解説でした。本講はそれを時系列に並べ直した作戦図です。各所に関連講への参照を置きますので、必要な武器の詳細はそちらで確認してください。

1 第1幕・初動 ― 証拠・権限・期限を確かめる

まず、相手の通知内容、脱退の根拠と効力、代表権、顧客業務の期限を確認します。「72時間以内なら足りる」という共通の期限はありません。情報漏えい、資金移動、差し迫った申請期限等には、その緊急性に応じて直ちに対応します。

感情的な応答をしない。「裏切り者」「顧客は渡さない」「タダで出て行け」。言いたくなる言葉の全部が、後に相手の「やむを得ない事由」(第6講)や慰謝料請求の材料になり、録音されていれば法廷で再生されます。その場では「考えを聞いた。持ち帰って検討する」で切り上げ、結論めいたことを一切言わないのが正解です。

書面化を求める。脱退の意思・希望時期・条件を書面(メールで足ります)で示すよう求めます。口頭の「辞める」は、後から「そんな趣旨ではなかった」と動きます。書面化の要求は、相手の本気度を測る試金石でもあります。

基礎資料を集める。定款、登記事項証明書、直近3期の決算書と勘定科目内訳、借入とリースの一覧、社員の連帯保証の明細、顧客リスト(担当・報酬・契約形態つき)、従業員名簿、保険契約の一覧。交渉も訴訟も、この資料の上でしか組み立てられません。第2幕で弁護士に相談するとき、この一式があるかないかで初回相談の密度がまるで違います。

アクセス権限を棚卸しする。会計・労務・給与のクラウド、共有サーバ、ネットバンキング、代表メール、ウェブサイトの管理画面。誰がどの権限を持っているかを一覧化し、法人の管理者権限を確保します(第9・11講)。相手の権限を直ちに止めるかは慎重に判断します。脱退の効力発生前に一方的に業務から締め出せば、今度はこちらが義務違反を問われかねません。「止める」のではなく「監視できる状態にする」のが初動の要諦です。

証拠の保全を始める。相手とのやりとりの記録(メール・チャットの保存)、システムのアクセスログの保存設定の確認(第23講)、重要な話し合いの録音。録音は、自分が参加する会話について行う限り、適法性が正面から否定されることはまずありません。

対外説明は事実と評価を分け、必要な相手へ必要な情報を伝えます。未確認の非難は避けますが、顧客の期限、漏えい等の報告・本人通知、従業員の就労に必要な説明まで合意成立後に先送りしません。共同通知ができない場合も、権限を確認したうえで継続体制と問い合わせ先を案内します。

2 第2幕 態勢構築 ― 方針の三択と選択基準

初動を乗り切ったら、方針を決めます。大別すると三つです。

(甲)早期合意を検討する方法。顧客業務の安定と費用の抑制が見込める一方、評価・証拠の確認が不十分なまま権利を処分しないよう、開示資料、留保事項、支払原資を確認します。

(乙)持久戦路線。急がず、予告期間・事業年度末・6か月ルールといった時間の構造(第4・6講)を味方に付けて、相手が条件を下げるのを待つ。払戻額や不勧誘で有利な条件を引き出しやすい半面、係属中の顧客流出と組織の疲弊が代償になります。

(丙)義務違反を法的に追及する方法。違反の内容と証拠に応じて、除名(第8講)、権限消滅・保全(第9講)、損害賠償と相殺(第16・19・20講)を検討します。各制度の要件と、判決前に必要な業務保護を分けます。

選択の基準は四つあります。証拠の厚さ(丙路線は証拠がすべてです。疑惑だけで攻勢に出ると、失速したときに交渉の足場ごと失います)。資金繰り(払戻しと違約リスクに耐える体力がないなら、時間を掛けるほど不利になります)。顧客の粘着度(顧客が法人に付いているのか相手個人に付いているのか。第18講の見立てが、持久戦の損益分岐を決めます)。そして6か月ルールの有無(税理士法人の2名法人では、相手の脱退が確定した瞬間から時計が動きます。第4講の対策――後任確保の目途――が立たないうちは、持久戦は選べません)。

弁護士への相談は、この方針決定の前に済ませてください。方針が決まってからの相談では、初動の失点(感情的なメール、権限の一方的停止、顧客への口撃)を抱えた状態からのスタートになります。費用を心配される方が多いのですが、初回の相談で方針の当たりを付けるだけでも、その後の展開はまるで違います。

3 第3幕 交渉 ― アジェンダ設計と、相手の初手別の応手

交渉のテーブルに載せる議題は、決まっています。①脱退の時期、②清算金(持分払戻し・のれん調整・退職慰労金)、③顧客(承継リストと共同通知)、④従業員(転籍の有無と範囲)、⑤負債と連帯保証、⑥データとID、⑦口外禁止と対外説明。この7つを最初から一覧にして、「全部まとまったら全部に合意する(個別の先行合意はしない)」という一括妥結方式で進めるのが原則です。時期だけ先に合意すると、残りの議題での交渉力を失います。

交渉力の源泉――残る側がどのカードを持ち、相手が何を持っているか――は、第30講のレバー対照表にまとめますので、そちらを手元に置いてください。ここでは、相手の初手別の応手だけ整理します。

即時退社の主張には、606条3項の具体的な事情を確認して回答します。相手が同意していないというだけで退社の効力は否定できません。病気等で業務ができない場合を無条件に業務放棄と扱わず、脱退の成否、従前の担当義務、履行可能性、実際の損害を調べ、顧客の引継ぎは並行して進めます(第7講)。

解散請求が示されたら、業務停滞又は権利侵害の具体的な内容と、現実に実行できる代替策を調べます。退社制度の存在だけで解散請求を排除できるわけではありません。第24講の項目に沿って、継続案と清算案の資金・人員・顧客対応を比較します。

払戻額が食い違うときは、基準日、資産・負債、持分割合、のれん、損害賠償債権の評価と相殺を同じ表で比較します。法人債務を純資産から控除したうえで、その債務の個人保証を根拠なく再控除しません。M&A資料は取引対象と前提をそろえた補助資料として扱います(第12〜17・27講)。

4 第4幕 脱退合意書 ― 条項一覧と「落としがちな穴」

交渉がまとまったら、脱退合意書に落とします。この一枚が、以後のすべての紛争の防波堤です。条項の一覧と、実務で落としがちな穴を表にします。

表1 脱退合意書の条項一覧

条項 決めること 落としがちな穴
脱退の効力発生日と根拠 合意、予告、やむを得ない事由、法定事由を特定し、争いがあればその解決内容を書く 既に法律上生じた脱退と、将来の合意脱退を混同しない(第6・7講)
持分払戻し 額面、算定基準日、評価、相殺、源泉税、現金支払額、期限、分割条件を分ける 国内居住個人の非上場配当の20.42%源泉税と最終税額は別。未払配当の規律も確認(第17講)
有償承継と顧客への通知 対象事業・契約、対価、承諾の確認、引継ぎと精算の手順を記載 顧客は当事者間のリストで拘束されず、無回答を承諾としない(第13・26講)
不勧誘等 顧客勧誘・自発的依頼の受任・従業員勧誘を区別し、対象・期間・行為を限定 年数だけで有効性は決まらない。労働者への違約金等には労基法16条を確認(第21・22講)
負債・保証 残高、債権者との協議、保証解除、内部負担、求償と担保を定める 612条の2年内の請求・予告の有無による責任と、個別保証を区別(第3講)
データ・ID・証明書 データ・媒体の返還と削除確認書、アカウント停止日、電子証明書・電子申請IDの切替え 削除「確認」の手続(誰がどう確認するか)を決めず、持出し疑惑が晴らせない(第23講)
名称・表示 脱退側の経歴表示の範囲、法人サイトからの氏名削除、紛らわしい名称・屋号の不使用 「〇〇法人の元代表」を看板にした営業を想定しておらず、顧客の誤認が生じる
相互不誹謗・秘密保持・口外禁止 相互の誹謗中傷の禁止、合意内容の口外禁止と例外(税務・法令上の開示) 対顧客・対従業員の説明用の共通文言を作っておらず、双方が違う説明をして信用が落ちる
表明保証・清算の範囲 確認した事実、開示事項、未知の違反、違反発覚時の処理を明示 清算条項がどの請求を含み、何を留保するかを具体化。違約金・減額は別に効力を検討
清算条項・紛争解決 本合意に定めるほか債権債務がないことの確認、管轄 清算条項は諸刃の剣。表明保証違反・未発覚の不法行為を例外として明示しないと、こちらの請求まで封じる

表の右列を眺めると、穴の多くが「税」と「発覚が遅れるもの」に集中していることが分かります。金額の合意だけを急いで、源泉徴収・精算・表明保証を落とす。これが、脱退合意書の三大失敗です。調印前に、税理士(できれば紛争と利害のない外部の方)と弁護士の両方の目を通してください。

5 第5幕 決裂したら ― 手続の選択肢マップ

交渉が決裂した場合、または交渉と並行して手続を使う場合の選択肢は、次のとおりです。

調停・ADRでは、双方の参加意思、扱える対象、費用、開催方法、成立した合意の効力を確認します。士業法人の紛争について成立率や所要期間を一律に示す資料は本講の根拠としていないため、「成立しやすい」「必ず訴訟より速い」とは判断しません。保全等が必要な場合は協議と並行して検討します。

訴訟では、法人の損害賠償請求、除名、業務執行権・代表権消滅、相手からの払戻請求への対応等を検討します。各請求の当事者、管轄、要件、証拠を分け、払戻計算と相殺の主張をつなぎます。除名の必要性を具体的に立証することと、途中で和解を協議することは両立します(第8・9・12〜17講)。

保全。持出しデータの使用差止めや証拠保全(第23講)など、時間との勝負の場面では本案より先に保全を検討します。

訴訟中にも和解の協議は可能です。ただし、主張・立証は判決による判断に耐える形で準備します。和解の割合を根拠なく一般化せず、和解で決められる条件と、判決で求める救済をそれぞれ具体化します。

6 第6幕 クロージング後 ― 履行管理と再発予防

合意書に判を押しても、まだ終わりではありません。

登記・届出・通知の実行。社員の脱退の登記、税理士会・社労士会への届出、税務署・年金事務所等への各種変更届、金融機関・保険会社・貸主への通知(第11講のチェックリスト)。誰が・いつまでに・どれをやるかを合意書の別紙にしておくと、漏れが出ません。

履行のモニタリング。分割払いの入金管理と、不勧誘条項の遵守状況の観察です。リスト外の顧客が不自然に解約し始めたら、顧客への穏当なヒアリングと証拠の収集(第20講の6軸を意識した記録)を静かに始めます。違約金条項があれば、請求の要否は証拠が揃ってから判断すればよい。慌てて内容証明を打つ前に、違反の立証可能性を精査します。

再発予防。紛争を一度経験した法人は、どこに穴があったかを世界で一番よく知っています。その知見が生々しいうちに、定款と社員間契約を第28講の15項目で作り直してください。次の社員を迎えるとき、同じ穴に落ちない器になっているかどうか。それが、この紛争から回収できる最後の、そして最大の価値です。

7 全幕タイムラインと「今日やること」

対応の段階主な作業
1 初動証拠・権限・直近の期限
2 態勢構築顧客業務、資格者、資金
3 交渉事実・権利・計算の比較
4 合意書条件・期限・第三者との手続
5 不成立時の手続訴訟・保全・調停等の選択
6 実行登記、届出、権限移管、支払

図1 対応の6段階(事案に応じて並行・前後する)

全体の期間は、資料収集、評価、関係者の合意、訴訟・保全、登記等によって変わります。一律の3〜6か月・1〜2年という見積もりは置きません。606条の予告期間、税理士法人が1名になった後の6か月、登記・届出の期限は法定期間として別の表で管理し、担当機関の受付日程も確認します(第4・6・11講)。

「辞める」と言われた日に、今日やること

①感情的な返答をせず「持ち帰って検討する」で切り上げる。②相手に意思と条件の書面化を求める。③定款・登記・決算書・借入保証・顧客従業員リストを集め始める。④クラウドと権限の一覧を作る。⑤メール・チャットの保存とログの保全設定を確認する。⑥顧客・従業員への発言を止める。⑦できるだけ早く、この分野の弁護士に相談の予約を入れる。――この7つだけで、初動の失点はほぼ防げます。

次回 いよいよ最終回です。第30講「総括 ― 出口シナリオ比較表と交渉レバー」では、29講分の議論を、出口4シナリオの比較表と交渉レバー対照表という2枚の作戦図に畳み込みます。


【本講で引用した主な法令】会社法606条・611条・859条・860条(税理士法48条の21・社会保険労務士法25条の25による準用)/税理士法48条の18第2項・48条の14/社会保険労務士法25条の18/所得税法25条1項6号・181条・182条 ※各論点の詳細な根拠は本文中に掲げた各講を参照

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